山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

容堂公の純愛物語②

思いもよらず藩主となった豊信(とよしげ)は2年後、烏丸光政の長女正(なお)を京都から正妻として迎えた。思いもよらぬと云う事では、彦根藩井伊直弼も同じといえる。
その豊信は英明であったが、気性が激しく、思い込むと一途なところがあるお殿様だった。
老中阿部正弘の側室に鯉尾という絶世の美女がいた。阿部の屋敷を訪れた際、豊信は見染めたのでしょう。阿部が死去した後、豊信は彼女を側室に迎えたいと言いだした。
これには土佐藩全体が猛反対した。
十三代山内豊熙の未亡人智鏡院は薩摩藩島津斉彬の妹である。智鏡院は豊信の義母にあたる。
容堂が鯉尾を側室に迎えるとの話を聞いて,実兄の斉彬にその非を訴える。
斉彬は仕方なく越前の松平春嶽に手紙を書き、容堂に思いとどまるよう説得を依頼している。
しかし、一途な容堂がこれを聞きいれるはずもない。安政5年初め鯉尾を側室に迎えた。
その一年後、隠居することになる。
安政6年(1859)9月4日、隠居となり品川下屋敷に謹慎。鯉尾の生んだ光姫生後4ヶ月を連れていた。公にはされなかったが生母鯉尾も一緒だったことは言うまでもない。
そう、品川下屋敷では人間容堂としての生きざまを見せた。光姫と鯉尾との生活は容堂にとってかけがえのないものだった。それ故、明治5年(1872)46歳で死去した容堂はこの地に眠りたいと願ったのだろう。
容堂の純愛物語と言えようか。