山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

近江屋遭難5日前

後藤象二郎の日記には「龍馬は十一月五日、福井を発して京へ帰り、薩長の勤王党と相図り頻りに心を新政府組織の事に苦しむ」とある。龍馬が苦慮したのは新政府の財政基盤。金札を発行して、新政府の財源とするなど、もう龍馬の考えはもう新政府の運営におよんでいる。
そして、死の五日前の十一月十日、龍馬は同じ土佐藩の福岡孝弟と同道して永井玄蕃を訪ねている。
永井は二条城の近くの「大和郡山藩」の屋敷に止宿していた。龍馬の下宿のあった四条河原町の近江屋からは三キロ以上離れている。一説にはこの日龍馬は二度も永井を訪ねたという説もあります。
龍馬の永井訪問は土佐藩大目付だった神山郡廉の日記にあり、土佐藩としても龍馬の動きを注視していたことが分かります。
龍馬は永井に是非とも会って話をしようとしますが、この日は永井に忙しいからと断られています。
そしてこの永井在居への往き帰りに薩摩藩中村半次郎(人斬り半次郎)に会っています。この事は半次郎が書いた「京在日記」に「山田・竹之内両士同行散歩之処、途中にて土州坂元竜馬へ逢う」。
これは半次郎が偶然会ったかのように書いているが、しきりに永井と交渉しようとしている龍馬を、薩摩藩としてもかなり気にしていたことの表れと思われる。