2部中堅として健闘!
私が監督をやるようになったのは1968年(昭和43年)秋です。当時大学側で監督をする先生がいなかったが、なぜ卒業間ばかりの私がやる事になったかは いまだに良くわかりません。
たぶん4回生のとき期待を裏切って3部に降格して卒業。あと2年間部員が極めて少ないなかで、一時は4部にもなりリ−グの組み換えがあり3部という苦々しい状況のなかで誰かにやらせておけばよい、ということではなかったかと思います。
私は卒業後オムロンに入社、京都勤務となったのを幸いに、1年半後に監督となり以降水野さんにバトンタッチするまで足掛け8年間やらせていただきました。
私はサッカ−の指導者としてのスキルもノウハウも、ないので出来ることは毎週休日に高丸の丘を訪れ一緒に汗を流すこと、合宿を共にすること、幹部と年2回運営方針を討議して意思統一をはかることをやりました。
当時商大サッカ−部の部長としては、救急車で部員をしばしば運んでいただいた話で有名な「渡部浩太郎」先生が一貫してやっておられました。
1969年水野主将時代、秋のリ−グ戦(年1回方式)で1位となり、入れ替え戦で大市大を破り「歓喜の昇格」を果たし、以降数年間「2部の中堅を維持し上位を狙うチ−ム」になりました。
当時は1部8チ−ム、2部8チ−ム、3部4ブロック、で構成されていました。
1969年(昭和44年) 水野主将(4回生10人) 2部昇格
1970年(昭和45年) 武山主将(4回生 7人) 2部5位
1971年(昭和46年)(故)矢頭主将(4回生 6人) 2部5位
1972年(昭和47年) 嶽元主将(4回生 4人) 2部3位
1973年(昭和48年) 八隅主将(4回生 5人) 2部5位
1974年(昭和49年) 鈴木主将(4回生 7人) 2部6位
1975年(昭和50年) 立花主将(4回生 5人) 2部5位
それまでの時代と一番変わった事は、高校時代の経験者がだいぶ増えてきたこと、そして練習のやり方など専門的になってきて「うまくなった」こと。われわれのような責任感・悲壮感ではなくサッカ−が好きで、楽しんでやっていること、しかしメンバ−間のサッカ−への姿勢は厳しく、情熱は強く、ひたむきさに溢れていました。
なによりもキャプテンはじめ4回生を中心に自主的・自立的なチ−ムつくりが特徴でした。
試合では「まとまりの良さ」でもって「ヤバイなあ・・」という試合もなぜか良く勝っていました。個人レベルでは負けるが、まとまりの悪いチ−ムには、「お得意さん」として勝つ事が多かったことを思い出します。
一方で1部の壁はとてつもなく高い、という事も実感しました。
これからシリ−ズで各年代毎に現役時代を振り返りながら当時を語ってもらいます。