山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

今上陛下12歳 昭和20年8月15日の作文

この大震災に苦しむ民を労うべく両陛下は日帰りの原則をもって被災地を慰問されて居られる。
度々TVにて拝見するたびに何故か自然と頭が下がる。奔放無頼の私でさえ感じるこの有難さは何処から来ているのだろう。
計画停電に際してはその時間に合わせて皇居の電気使用を停止されると聞かされた。
国民の目線に合わせて労苦の一端でも共有しようとされる姿勢は、今上陛下だからこそのなさりようと心得る。
終戦詔勅を奥日光で聞かれた小学6年生だった陛下は、その日の作文に来るべきさらなる困苦を予見され、国民と共にその克服に努力する事を決意された内容を記された。時あたかも60年後、再びその際の事をなぞられて、昭和天皇以上に国民の心情を汲んだ慰問慰労を続けられている。
天災1割、人災9割とも思えるこの事態に対し、政治家・官僚がどうして陛下の心情に共鳴奮起して括目の振る舞いを示さないのか、口惜しい限りだ。
陛下の奥日光疎開には近衛兵が身辺をお守りしたが、弘子ちゃんのおじさんも近衛兵として警護に従事していたと聞いた。
残念にも、敗戦の混乱からか部隊行動の際、乗車したトラックが事故を起こし、只一人落命の悲運に見舞われた。
弘子ちゃんの親父さんも16歳で広島から現役志願。支那事変まっただ中工兵として従軍し、敵前渡河作戦で手柄を立てて金鵄勲章の栄に浴している。
しかし、3人兄弟の2人の弟を戦争で喪うと言う痛恨があったことも。