山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬最後の5日間・林謙三

庫山堂先生に先を越されて困っちゃう。そこで、ブログ「左ナナメ45度の竜馬」から11月10日の手紙解説を孫引きする。

『11月10日送った手紙には、次の2点の事が書かれている。ひとつは、お詫び。もうひとつが、林への希望として、海軍力の増強に尽力してほしいという要請である。

お詫びというのは、蝦夷開発ができなくなったことへの謝罪である。これは、3本マストの帆船・「大極丸」を土佐藩より借り受けることが困難になったことが原因。龍馬は、この手紙の前年、慶応2年(1866)10月、大極丸をプロシヤの商人チョルチから購入した。しかし、その支払いができずに困窮する。最終的に土佐藩に、大極丸の代金は肩代わりしてもらう。これで、海援隊は船を運用はできるが、ヒモ付きになって自由には使えないということを悔しがったのだ。

林謙三への要望とは、無駄死にすべきではないということの確認。幕府対、薩長雄藩の対立のなかで、林に対して命をかけるべきではないということを念を押している。「あなたが、幕(府)についても、薩長側についても、海軍術の習得に専念しなさい。」と記している。龍馬としても、一戦は避けられないと感じていたのであろう。しかし、龍馬は日本人同士が戦ってどうするのだ。真の戦いは、今後あるであろう欧米列強とのもの。この思いが強かった。蝦夷開拓も、人材の消耗を防ぐ意味があったということだ。

ちなみに、龍馬の考える海軍とは、今で言う「産軍学」である。産業は「海運」。軍事力としての「海軍・艦隊」。そして、学として「船舶学校の設立」である。この三つが機能してこそ、国力が外国列強と五分に渡り合えると考えた。林謙三は、龍馬の遺言を守り、海軍増強に力を尽くした。1868年「春日丸」艦長を皮切りに、、「和泉丸」艦長、兵部権少丞、兵部少丞を経て、1871年陸軍中佐。さらに要職を歴任。最終的には、1890年9月、海軍中将に進級している。』

なお、もう少し補足するなら、下記引用のように有為の人材を蝦夷地に送り込むべく購入しようとした太極丸を資金難から土佐藩に頼ったばかりに、自由に使えなくなり、林謙三と約束していた話しの実現は不可能となった。その事のわび状でもある。
<平尾氏「海援隊始末記」に〜林謙三は鹿児島から十月に上京してその頃、大坂に滞在していた。(中略)龍馬は国内戦で多くの人材を犠牲にすることをさけ、それらを蝦夷地の開拓に送りこみ、さらに将来のために海軍術を養成すべきだと、林謙三との間で論じ合い内談は成立していたのである。・・・・・宮地佐一郎「龍馬の手紙」>