山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明石駅前再開発・パブリックコメント下書き①

 明石駅南地区再開発事業    意見②一部変更する      H23.7.13
【駅前一帯の転変】
 駅前に暮らして50年、まさにこの街の転変を目の前にして来ました。
 終戦直後、両親が追手町にささやかな喫茶店を開業して以来、主に2号線沿北側の街並み・人並の変化を肌で感じた一人です。
 昭和23年、ときあたかも敗戦から人々が立ち上がり、戦後奇跡の復興が始まろうとしていた頃、この街の主役はずらっと軒を並べていた映画館群でありました。
 娯楽と云えばまさに映画しかなかった頃、映画館の支配人曰く、押すな押すなの観衆で、館内立錐の余地もなく、頂いたお札を整える暇も無く、足元のリンゴ箱に踏み込んでいた状況で、西から松竹・山陽座・東宝東映白鳥座(洋画専門)・日活と6館。
 ナイトショーも始まり夜遅くまで人波の絶えることはありませんでした。
 その全盛時代に陰りが見えてきたのがTVの普及がかなり進んだ頃。それでも力道山プロレスはまだ街頭テレビとか喫茶店での観戦が主でありました。
 人波が消えると同時に2号線の交通量は激増。その為、2号線を挟んで魚の棚に通じる露地口へラクラク渡ることが難しくなって来た。結局後に歩道橋が出来て、その流れは堰き止められた。人波減少に拍車を懸けることになった。
 その閑古鳥を追いだしたのが昭和41年10月25日のダイエー明石店開店。
 山陽座、現在の明石東宝を立て替えて地階から4階まで、初めて明石にスーパーの食品売り場が登場し、それはそれは連日大入り満員。その勢いに任せて、たちまち西隣の松竹館と地階・3・5階を繋いで拡張。
 時を同じくしてジャスコ明石店も開店し、一帯は巨大ショッピング街の様相を呈してきました。
 昭和49年12月ダイエー東館がオープンしてからの15年がその全盛時代で、大明石町1丁目と改称されたこの一帯を含む錦江商店街の勢いは凄まじいものがありました。
 当時、ダイエー一帯の土地評価も確か1000万(坪)を越えることもあったと記憶している。ダイエー西館の第1明宝は土地評価で30億を越えていた。
 平成2年をピークにバブルが弾けるとともに、どうやら雲行きが怪しくなっていく。

 この間大明石町1丁目で建てられたビル群の殆どが在野のデベロッパーとも言える1個人N氏の采配で行われてきた。テナントの誘致から、建築まで全てを取り仕切った。
 確か明石でも初めてとなった下駄ばき住宅を除いては、覚えているだけでも明石東宝ビル(
 柏木ビル)・錦江ビル・第二錦江ビル・藤田ビル・新納ビル・第1明宝ビル・第2明宝ビルがそれだ。勿論施工は明石土建だ。

 当時、山陽電車は高架化されておらず、国鉄明石駅との間は確り山陽電車の軌道で分断されていたこともこの一帯の地盤沈下の一因でもあった。