山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

福岡孝弟②

『慶応3年3月長崎へ出張した時には、後藤象二郎の周旋により坂本龍馬と会談し、龍馬や慎太郎は土佐藩に必要な人材と判断して、後藤象二郎と独断で坂本龍馬中岡慎太郎の脱藩の罪を赦免します。
4人は話し合い、坂本龍馬が率いている貿易商社亀山社中海援隊として土佐傘下に新設する事と、中岡慎太郎率いる陸援隊を併設する事を取り決めています。慶応3年3月以後の孝弟は職務に奔走し、四候会議の開催が決定され西郷隆盛が土佐を訪問する事になると急ぎ土佐へ戻り西郷一行を迎え、山内散田屋敷にて西郷と面談をおこなった容堂は、孝弟に『東山の土になるつもりぞ』との決意を語ったという。
さらに容堂は西郷に『藤次(孝弟)なども大の尊幕論であったが、上京して諸藩の有志と交ざり多いに議論がよくなった。自分もうれしく思う。』という発言が出る程に成長を見せていたようです。再び入京し6月22日には三本木の料亭で後藤象二郎坂本龍馬中岡慎太郎らと薩摩藩首脳と会見し、薩土盟約を結びます。幕府を排してして王政を確立する為に尽力するという内容でした。

土佐藩は武力での統幕を目指す薩摩藩とは違う、平和的路線である大政奉還案を進めており、孝弟は容堂の命により大政奉還を成功すべく説得工作にかかります。大政奉還の建白書提出には薩摩藩らの了解が得る必要があり孝弟は奔走しますが、その間にも薩摩藩らは着々と武力倒幕の準備を進めます。
武力派より先に成功させる為に8月21日、容堂に大政奉還の建白を急ぐように手紙を出し10月2日ようやく了解を取り付け、翌3日孝弟は後藤象二郎と共に老中板倉静勝を訪問して建白書を提出したのです。
慶応3年10月13日老中板倉静勝は二条城に在京四十藩の重役を呼び出し、集まった重役らに将軍徳川慶喜の政権奉還に関する諮問案を回覧したのです。そしてこの時孝弟は後藤象二郎と共に将軍に謁見出来る事になり、て英断に敬服する旨を言上したのです。

10月14には小松帯刀や芸州辻将曹らと共に摂政二条斉敬を訪問して将軍の奏請はすぐ聴許するよう勧告します。』