山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

仇敵・山内の高知城天守に初めて登った

今を去る410年前、関が原で西軍に組して敗走した長宗我部盛親が命からがら堺から土佐へ逃げ延びた。
この有様の遠因は元親の継承に手抜かりが有ったからと言ってもほぼ過ちではない。
秀吉の島津征伐の前哨戦・戸次川の合戦で、精兵700と嫡男・信親を失ってから、元親は正気を失ったかのような行動に出る。
信親を溺愛していたことから、特に出来物との評判が高かった3男・津野親忠を飛び越して、四男・盛親に信親の長女を娶らせて後継とした。
その際、逆順を唱える有力武将を徹底粛清。自分が亡きあと長宗我部を支える人材を失ってしまった。
慶長三年に秀吉が死去した後、政情不安となると家康と誼を通じ、三男津野親忠の幽閉という愚挙に及んだ。
元親が慶長四年四月京都・伏見屋敷で享年六一歳で死去した際、盛親への今後の具体的な行動指示は残されなかったという。この不徹底さが悲劇を呼び、家康・東軍に味方するという意志伝達に失敗。
おまけに、家康に謝罪に向かう際、家臣久武親直の讒言からとは言いながら、兄・親忠を殺害した。このことが藤堂高虎から家康に告げられると、家康大いに怒り領土没収・改易の憂き目に晒された。
島津の抑えとして戦略的立地にある土佐が濡れ手で転がり込んだ家康は、山内を二四万石の大名に曾立て、大恩を売った。
この大恩たるや、260年に渡り効果を表し、幕末、容堂をして親幕府の立ち位置から抜け出せなかったのは、皆様ご存じの通り。
その山内が作った城とならば、津野末裔としては、一生登ることはないだろうと決めていたが、浮世のお付き合い、妹夫婦つれとあれば、いそいそとご案内先導仕った次第。