山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

神戸での近藤長次郎①

饅頭屋近藤長次郎については詰め腹を切らされたことばかりが取り上げられ、本当の長次郎はどんな生い立ち、経緯を辿った男なのかあまり関心を待たれていないことを残念に思っている。
その長次郎が、実はこの神戸の街に、ほんの短い間ながら、唯一幸せに満ちた一時期を過ごしたことに何か救いを感じるのは何故なのか。

龍馬が先か、長次郎が先に勝の弟子になったのか、議論が分かれるところだが、どうも長次郎の方が小龍・左行秀・高島秋帆の繫がりから勝入門に無理がない。
それはさておき、文久二年師走から翌春にかけて順動丸は江戸と大坂の間を何度となく往復。海舟は大坂湾の台場建設の指図をしながら、かねて提案中の「神戸海軍操練所」の提議が通り、その準備にかかる。
さらに四月二十四日には「神戸海軍造艦所取建掛」を命ぜられる。このころの土佐人塾生としては坂本・近藤・高松・安岡・新宮らである。
塾本部は大坂の北鍋屋町の專称寺に置かれていた。
当時、南鍋屋町の会所主を大和屋弥七といった。会所とは各種商人・職人の株仲間の集会所であり、また、米産・為替御用・金相場・掃綿延売など、札・手形発行、引換を行う処だ。
会所主は町の世話役格の老(としより)であり、大和屋もそうした一軒で、勝塾もこの大和屋にいろいろと便宜を図って貰っていた。
その大和屋にお徳という娘がいた。塾生の間で評判の娘だったが、その中で長次郎と親密を増していった。この話を聞いた佐藤与之助塾頭が仲人を買って出た。長次郎26歳、お徳24歳。
おそらく大和屋も長次郎の才智を認めていたことからだろう。
長次郎の遺児・百太郎の覚書に、「文久3年丁亥六月三十縁談申し入れ、佐藤与之助仲人ヲ以テ」と記されている。両人はそれから3ヶ月後の、九月二十日大和屋屋敷で祝言をあげた。