山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

神戸での近藤長次郎②

時あたかも文久3年下期から翌元治へかけての政局はまさに激動そのものと言える。尊王攘夷派が転落して公武合体派が勢いを盛り返すと同時に幕府は権力を挽回しようとする。
長州藩は先に出ていた朝廷の攘夷打払令によって、外国船を砲撃する。土佐藩では勤王党が弾圧せられ、龍馬をはじめ勝塾生たちにも召喚の通告がくるが、龍馬らは召喚に応じず再び脱藩者となって、文字どおり勝の家来ということになってしまう。
勝の家来ということは幕府の家来になるということ。
この時、勝へは長州藩に砲撃された諸外国との間を調停さすため、長崎への出張の命が下る。
元治元年(1864)2月下旬、勝は塾生の龍馬以下、千屋・望月・近藤・安岡らを連れて長崎に向かった。しかし、長州と諸外国との調停は不調に終わり、2ヶ月後に引き揚げる。
長次郎の妻お徳は、この時、龍馬の好意で神戸走井の医師丹波元意の借家に移っていた。
長次郎は熟生活を離れ、初めてお徳との新所帯を営むことになった。
短期間であったが、貧しい饅頭屋時代から休む暇もなく駆け抜けてきた波乱の生活に一瞬の春を恵まれた。塾へもこの家から通うようになった。
7月17日にはお徳は男児を産み、百太郎と名付けた。
その後、勝の失脚にともない、龍馬とともに薩摩に出発する際、長次郎は大和屋哉七宛に一首の和歌を遺した。

うき雲の立ちおほふなるうきよなり きへなはこれをかたみともみよ