山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬街道④佐賀関・徳応寺

長州藩は攘夷政策のもと、下関海峡を通航する仏・英・瀾の船に砲撃、下関は戦場となる。
英・仏・米・瀾4ヶ国の報復中止の交渉に、勝海舟は龍馬とともに蒸気船長崎丸で佐賀関に上陸。
このことを宿泊した徳応寺の10世住職・東光龍潭が絵入りで紹介している。
長崎からの帰りとみられる1864年4月10日には勝とともに宿泊した人物の中に、坂本龍馬の名前が記されている。龍馬は当時、宿泊先では偽名を多く用いていたため、本名による記載は非常に珍しい。

海舟日記によれば、佐賀関において「15日 5時 豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿す。」
鶴崎において「16日、豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀関より5里。此地、街市、可なり、市は白滝川に沿う。山川水清、川口浅し。」とあり、次の句を残しています。

「大御代はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴崎

野津原においては、「17日、野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず。八幡川あり、大低一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。海道(街道)広く、田畑厚肥、桃菜花盛、」とあり、次の句を残しています。

「民のかまどゆたけきものを、しらぬいのつくし生うてう野津原のさと」