山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬街道⑤豊後ー肥後街道

大分道大分光吉ICを降りる。勝・龍馬一行が九州上陸2日目に泊った鶴崎は残念ながら回れなかったが、同じく熊本藩の飛び地だった野津原(のつはる)を目指して豊後街道、大分の人からは肥後街道に入る。
清正公が参勤交代のために整備した街道だ。
R57・R442と道路名は変わるが、やはりR442はかなり手狭な県道で、豊後大野市までには改修中の道路もあり、迂回道は村の中、家の軒先を掠めるような難所もあった。
それも朝地に至ればR57となり、朝地でコンビニを見つけた時は思わず駆けこんだ。
阿蘇の裾野へと目指す手前、竹田市へ入ると岡城祉の案内番が目に付いた。
確か幼少期を竹田市で過ごした瀧廉太郎作曲の荒城の月が詠われたかのお城。思わずハンドルを切って城跡を拝見に。
城跡は見上げる先にあって、とても上っている時間は無い。そこでいつものアリバイ写真をパチリ。
ここまででAM11:55(558K)。
本道に戻ってからは神楽苑(全国神楽祭り開催)で神楽そばを頂いて熊本外港へと急ぐ。

一行は佐賀関から熊本城下まで文久4年2月15日から20日をかけて旅している。20日龍馬子を横井小楠宅に遣わし金子を届け談話をさせている。そして21日新町をたって高橋宿から舟で島原を目指した。