山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

『さんよう喫茶』⑰藤田兄弟との出会い・カレンダー展

旧明石警察署にあった藤田酒店に秀才を謳われた修作・浩平の兄弟。兄の修作氏は神戸商大を卒業して、川崎航空機に入社早々。弟の浩平氏は灘高を卒業して、神戸大経営学部在学中。この兄弟はどうやら、さんよう喫茶のその後のイベントの有力協力者であり、ネタ元であったと今頃になって納得。ついでに私のムチャな灘高受験も大学を神戸商大にこだわったのも、このご両人との出会いが齎したものでした。仲人をお願いした伊藤悌氏の奥様の甥っ子に当たることから、悌氏のご紹介から始まったお付き合いでしよう。兄弟揃って、音楽に堪能で、特にクラッシックに造詣深く、兄の修作氏は川崎航空機では、入社早々にもかかわらず、混声コーラスのクラブを立ち上げた程。またバラをこよなく愛して、栽培まで手がけていた。多分最初にこの兄弟の協力を得て企画したのが、『バラ展』であったように思い出す。既に広い壁面を利用した絵画展は常時開催していて、このお世話の中心は水彩画家・一水会石田一二先生(通称・ワンツー・中学教師)で先生には開店以来マッチのデザインをズットお願いしており、結局40年間のお付き合いになりました。その絵画展の合間、バラが一番美しく、艶やかで、匂い馥郁の時期を見計らって、多分5月後半ごろ、それも鉢植えを並べえるのではなく、一本一本切りそろえたバラを種類に分けて大き目の試験管に刺して、壁面に取り付け展示するというものでした。何十種類ものバラを取り揃え、展示期間中に何度か取り替えるという誠に手のかかることをやったんですね。一年に一度だけというものでしたが、お客様の喜ぶことを願っての誠心誠意の心尽くしでありました。さすがにこの企画は長続きはしなかったように思います。そうそう手のかかることを藤田兄弟にお願いするわけにはいかなかったのでしょう。そんななか、これも一年に一度の恒例行事として定着したのが『カレンダー展』です。

戦後まもなく、企業も今のように、猫も杓子もカレンダーを作れる訳で無い頃。それでも発行している大企業を狙い打ちに総務部宣伝担当に案内を出し、提供を求めて始めた。店の壁面は、高さ4M以上あったのではなかったっけ。確か300社ぐらいの企業が、まだ簡単な装いのカレンダーを11月ころから贈ってくる。それを大晦日紅白歌合戦と除夜の鐘を聞いてから、壁面一杯に吊るし始める。殆ど明け方近くまでかかった事もありました。自転車の荷台に滑り易いカレンダーを乗せて店まで何度と無く往復するのは、我々兄弟の仕事でした。吊るし方も、年々学習を重ね、見るからにデキの良い物を中心に飾りつける。元旦来店のお客様から感嘆の声を頂くと苦労も吹き飛ぶ心地でした。松の内の展示期間中に、希望のカレンダーの予約も受け付ける。やはり良い物に希望が集り、当然抽選となった。

このカレンダーも年々お金をかけたもの、デザインが斬新なもの、使いでに工夫のあるもの等、カレンダー文化花開く時期が確かにありました。このカレンダー展は、昭和41年この明石東宝が、ダイエー明石店と映画館ビルに建て替えられてさんよう喫茶が地下1階に押し込まれるまでの10余年継続した。そして昭和45年になって明石天文科学館で再開され、今年で38回を数える。昭和35年(1960年)明石天文科学館会館に際しては、展望台食堂を明石料飲組合の有志とともにレストランの経営に参画していたことから、科学館の出し物としえバトンタッチができたことと思われる。・・・まあいい事は続くもんです。、