山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

『さんよい喫茶』⑯テレビ狂騒曲

日本で最初にテレビ放送が開始されたのは、昭和28年(1953年)2月1日。その当時、テレビの価格は17インチで15万円、20インチで18万円。全国で受信契約者数は868.月額受信契約料は200円でありました。その波が明石にも押し寄せてきました。そしていち早くテレビを設置したのが、さんよう喫茶でした。そののち前の三和銀行、いまでは三菱UFJBKの店先あたりに街頭テレビが設置されたのは当分後のことだったように記憶しています。勿論清志さんは早速かなり大型を購入設置した。たしか24万円かかったとかなんとか聞いた覚えがあります。さんよう喫茶の新店は「天井がガイに高い」ことが幸いして、テレビはかなり高所に設置された。お客さんはコーヒーを飲みながら少々首を仰向けにしないとテレビが十分見れない。これには親父の魂胆がありました。当時東京・大阪で旋風を巻き起こしていたのがソフトクリーム。日世アイスクリームが発売したソフトクリームマシンは、今の機械とは、比較にならないぐらい操作が難しく、クリームのレシピもその店の特徴を出すための努力がいったもんです。マシンの製造タンクは普通のアイスクリームのバレルほども無い容量で、作っては出しでは、とても間に合わない。そこで8割程度に仕上げたタネを沢山作り置きして、冷凍ストッカーに溜め込んでおく。

目的は、当時全盛を誇っていたプロレスのテレビ中継です。力道山VS木村政彦との対決。世に「昭和の巌流島」と呼ばれた、昭和29年(1954年)12月22日のマッチは、当初引き分けにしようとの打ち合わせのはずが、木村の蹴りが誤って急所に当たつたことに怒った力道山が一方的に攻撃したため、木村政彦の失神負けに終わった。この頃から、力道山人気は盛り上がり、信じられないほどのフィーバーが巻き起こった。人々はテレビ中継を見たさにお店に押し寄せてまいりました。肥え汲みのトラック通路だった横庭に椅子・テーブルを全部放り出すと、店はちょっとした広場の大きさになります。そこに街頭テレビさながらに人々がかじりつく。完全立ち見状態です。そうなれば、おちおちコーヒーを飲ませてなどやっておれません。日ごろクリームなど舐めたことも無い親父に、入場料がわりのソフトクリームを現金引換えに渡す。次々と詰め掛ける人数で、店内人いきれで大変な暑さ。おじさんたちは、テレビに夢中で、ソフトクリームが溶けるのも気が付かない。挙句の果てに、応援の手を振り回したとたんに、クリームはあらぬ方向に飛んでゆく。けれど、誰も文句の声を上げる輩はおりません。たぶん100人前後は試合中継があるときは入ったんじゃないかな。当然大人に混じっての観戦はとても出来たもんでは在りません。勿論、我々兄弟は、コーヒーカウンターに特別席を確保して、美味しくソフトクリームを頂いておりました。あのソフトクリームの味が忘れられません。力道山とルーテーズのインターナショナルヘビー級タイトルマッチで力道山が王座を獲得したのが、昭和33年(1958年)だから、当分これで儲けさして頂きましたとさ。