山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

火縄銃と38式歩兵銃

cb0c0851.JPG8月2日(土)かねてより姫路お城まつりで種子島伝来の火縄銃実演があると新聞での告知を見逃さず、昼過ぎ電車で出かけた。日頃は車での姫路行きばかりとて電車から見える光景が実に新鮮に写る。加古川・坂元の区画整理も立派に完成して、念願の南北道路完成までもう一息。やはり不動産屋の血が騒ぐ。天下の姫路城を目前にした大手前公園までは、みゆき通りをそぞろ歩く。やはりお祭りとて、なかなかに賑わっております。
お目当ての火縄銃の実演は公園広場に到着と同時に始まった。岡山城鉄砲隊の面々の勢揃いである。感想を言えば、その鎧冑のさまざまから見て、侍大将と見まがういでたちもあり、一見その昔を彷彿とさせるものがありました。
しかし、元来サムライはあくまで刀槍での戦いに拘り、火縄銃鉄砲隊は身分の低い兵により編成されていた筈。少々そのいでたちに違和感を覚える。実技そのものは轟音を発し、白煙を上げる迫力はかなりのもの。これが信長軍の3000丁も揃い、1000丁スずつの3段連射を見舞われた武田勝頼もびっくりしたことでしょう。
腰周りには弾薬帯を巻いた姿から、何故か、旧陸軍の38式歩兵銃の装備姿を思い出した。
先日から、深夜NHKテレビが「兵士の証言)シリーズの再放送を流しています。かの激戦、それも究めつけの負け戦で奇跡的に生還した兵士の回顧のみを中心に編集されたもの。その元兵士の誰もが、話しているうちに言葉に詰まり、湧き出る涙をぬぐおうともしない。38銃一丁を頼りに、圧倒的米軍と戦いとも言えない局面に投入されて、よく命があったものだと振り返る。
日本軍部指導部の徹底した頑迷愚劣さは、太平洋戦争のあらゆる局面で遺憾なく発揮された。その犠牲になった兵士たちは堪ったもんじゃない。その嚆矢とされているのが、ソロモン諸島ガダルカナル島奪回作戦ではないか。旭川市を基地に編成されていた第七師団歩兵第28連隊、工兵第七連隊第一中隊および独立速射砲第八中隊からなる一木支隊(隊長一木清直大佐)が、日本軍が建設した飛行場を奪回すべく、2000名の兵員でもって隠密上陸を敢行した。結果、駆逐艦をつかっての作戦であったため、上陸できた兵員は916名とされている。そしてその装備もほんと38銃しか手にしていなかった。しかし軍部には、それまでの大陸での戦闘のイメージしか持ち合わせていなかった。一方、米軍はそれまでの敗勢を盛り返すべく、全ての準備が整い、近代戦の最先端をいく装備でてぐすねひいて待ち構えていたから堪らない。貧弱な装備をカバーするには、夜襲にたよるしか能がない。それも銃撃を禁じられた白兵突撃を命じられる。銃剣で相手を突き殺せというわけだ。
米軍は飛行場周辺に、数限りなく集音マイクを設置し、日本軍得意の夜襲攻撃も、その気配を察した米軍の照明弾のもとに、丸裸にされてしまった。この本格装備の米軍と日本軍が地上戦を戦った最初の戦闘で、一木支隊の916名中777名が戦死した。殺戮ともいえる戦闘が終わり、累々と横たわる日本兵の前に6台の戦車が現れたそうな。その戦車は、密積している死体と負傷兵をめざして突進し、まるで虱でもつぶすように蹂躙を重ねた。その後、ガ島では31000名の兵士が投入されて、5000名が戦死、15000名が飢えで死ぬことになった。
思わずこみ上げるのは、この初戦を少なくとも教訓・学習して、せめて次の作戦に生かすことでもなければ、兵士の死はまったくの犬死となる。しかし現実は、インパール作戦の無謀を例にとるまでもなく、終戦にいたるまで繰り返され、無辜の兵士と民を地獄へと追いやった。この程度の低さはまったくどうしたことだったのか。想像だにだきません。司馬遼太郎が太平洋戦争は書けないと筆を投げたのも頷ける。
西南戦争末期の西郷軍と大久保利通率いる政府軍ほどの格差戦争の経験はどこに置き去りにされたのか。
物量が戦場を支配する原則を無視して、大和魂ですべてを押し切ろうとした我々日本人のしょうこりなさはいまだ引きずっている気がしてなりません。