山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

浪人時代突入

明石高校の3年間、伝統ある音楽部の黄金時代の始まりに遭遇するという幸運にめぐまれた時代を享受した。
それまで練習に明け暮れていた生活が一変、受験勉強を本格的に否応なく始める。と同時に長年ラッパを吹き続ける生活から、まったく吹かない生活に転換した為か、強烈に鼻が詰まるという鼻炎の症状が現れた。飯田耳鼻咽喉科に駆け込んで診察を仰いだが、君は立派な鼻の割には鼻腔の奥が狭くて、ちょっとした刺激で粘膜が腫れると鼻づまりの症状となるとの診断。この症状には当分悩まされることになった。何しろ鼻が詰まると頭がボーとして勉強にならない。(これは言い訳です)
かくして昭和35年の受験シーズンを迎えた。志望校は幼少のころから、あるいは家庭教師についてくれた梶原健一氏が商大バレーボール部のこれまた超のつく遊び人だったことからか、神戸商大に凝り固まっていた。
成績もそこそこで、摂丹模試でも合格圏内の判定。まず手始めに私学受験となって、関西学院の経済・商学部を受験した。凍るような寒さの中、上原の関学キャンパスでの受験だ。この時、同級生で、後に東京オリンピックの400メーターリレー・第一走者を務めることになる浅井淨(きよし)君も一緒の受験となった。ところが、彼はその当時すでに100米10秒台で走るスプリンターとして注目を集めていた。(またまた余談ながら、かくいう私も素人ながら、100米12秒台で走り、浅井を除いて、明石高校一の脚力があった。)その彼と、受験会場で顔を合し、さて受験時間となると、我々は、寒々とした一般教室へ誘導される。一方浅井君は別室での受験らしい。あとで本人に確かめると、運動特待生としての受験で、内定はとっくに出ていて、ストーブで暖かい部屋に集められ、お昼のお弁当付き。試験用紙に名前だけは忘れずに書いてくれと念を押されたという。この辺りから世の中の、不条理というか、全員平等機会均等などの勘違いに気がつくべき現実に遭遇していた。
肝心の受検結果は経済落ちで商学合格となった。関西学院にはその当時すでに日本一を誇る応援団吹奏楽総部が活躍しており、このまま入学すれば当然吹奏楽三昧に生活がまたまた始まることになったはず。今考えると、この際の行くべきか、行かざるべきかの判断が、大きくあとの人生を左右していたことに気が附いた。