山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

昭和37年・第10回全日本吹奏楽コンクール優勝

img387.jpg神戸商大1年生のサッカー部員がリーグ戦の最中に、戦列を抜け出すという、いま考えるとトンデモナイことが出来たのは、一重に小林主将の理解と、私がいなくともそう戦力に影響ないためでした。北海道は室蘭までといえば、往復だけでも丸3日。コンクール当日をいれれば4-5日の日程を見込んでおかねばならない。
事実、大阪発夜行・日本海に夜8時ころの出発だったか、日本海側を一路青森目指して北上する列車中のなんと長かったことか。青函連絡船も十分時間がかかりました。そんな長旅にも拘らず、皆元気一杯で臨んだコンクールは、有永正人先生好みの選曲で、歌劇『ファースト』から、ヌビア人の踊り、クレオパトラと奴隷達の踊り、フリネの踊り(グノー作曲)。これまでのグランドマーチではいくら完璧な仕上がりでも、難易度において見劣りした経験から、我が楽団のもうひとつの特色であるエバーグリーンハーモニーと歌心を前面に打ちだした、会心の選曲でありました。バレー歌曲でありますから、今回はわれわれブラス・ラッパ隊の派手な活躍の場面はなかったが、より高度な音楽性を求められるものでした。
会場は室蘭富士製鉄体育館。昭和37年(1962年)10月28日。結果 一般の部・優勝でありました。
とくに我がトロンボーンパートは、私が1STで弟啓三が3RDを担当。このとき以来、大津野・小津野と呼び分けられるようになったとか。このときの登別での祝勝会・大浴場混浴事件は2008.8.8の項参照してください。
登別で本隊と別れて、トンボ帰りに東北本線を西下。早速サッカーの練習に参加・復帰いたしましたとさ。
この年、あろうことか関西勢がコンクールの全部門を完全制覇するという快挙を達成した。これを記念して翌年正月15日宝塚大劇場にてアマチュアトップコンサートが開催され、近くに住んでおられた小林先輩に聞きにきてもらったことを懐かしくおもいだします。