山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

金谷銀座劇場での失敗

手狭な木更津の事務所から、君津製鉄所前の君津出張所へ新築移転したのは、そのあと直ぐのこと。まっさらな2階の一室を与えられて、その夏を過ごす。夜の9時ともなると、事務所に降りて行って、連日明石の弘子ちゃんと長電話する。藤井所長が「このごろどうも電話代がやけに高いが、若松君長電話は禁止だよ。」と大声を出している。濡れ衣は若松氏に行ったようで。
 製鉄の現場は、工場が立ちあがり、機械類の据え付けも始まったが、それらは殆どが本社契約で現地の売り上げにはならない。現地は独自の営業成果を上げないと、おまんまにありつけない。そこで工場の地下・地面に目を付けて、地元千葉のコンクリート業者から、ヒューム管・道路の縁石・歩道用平板等手当たり次第に仕入れては売り込んだ。
 明石を出るまえから、一人での木更津暮らしを気遣って結婚話が進行しており、10月15日と日程も取り決めていた。6年ごしの交際期間満了となる。木更津と君津の中間、桜井という地にバンガローに毛が生えたような一ヶ家が六棟ばかり新築しいぇいたのを見つけ新居とすることに。
 そんなばたばたな日々を送る間も、入江商店の営業として接待にも励まなければなりません。木更津は江戸の昔から木更津芸者でならしたところ。朝早くから、海苔の仕事を終えた旦那衆が昼日中から芸者を揚げてドンチャン騒ぎの土地柄。そこにこれも遊びでは引けを取らない八幡製鉄のアイアンマンが参入。木更津の街は俄かに鉄鋼景気で沸き立っている。何しろ製鉄の社宅が団地単位で建設され、九州八幡からは連日工場単位で人がやってくる。これを称して民族大移動。はてわ鉄鋼マンを追いかけて、八幡のママさんたちまで移住して木更津にお店を開く始末。怪しげなオカマが走り回っておりました。酒が飲めない体質を恨みながら、WCでゲロを吐きながらの接待のつらかったこと。
 一日、製鉄の掛長が、彼も酒は飲めないらしく、金谷のストリップに連れて行けとのリクエスト。私を追いかけるように君津所長で配属されていた河井所長にご足労頂いて、ともに金谷に出かけた。
金谷銀座の行き詰まりにその劇場はあって、賑々しくストリップ大公演の真っ最中。舞台中央の出べそ間近に陣取って踊り子を待つ。ふと見ると河井所長は私の対面に席を取っている。彼もなかなかストリップを知っている感じ。踊り子が出現して、これまた下手なラジオ体操のような退屈な一踊りがすんで、出べそステージにせり出しての観音様御開帳と相成ります。思わず踊り子の股ぐら近くに頭をもたげると同時に、だれかの頭とゴッツンコ。「こら津野、痛いやないか。」の大阪弁は河井所長の声にかわらん。
河井所長に叱られたのは後にも先にもこの時だけだったことを思い出した。