山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

四万十が呼んでいる

 『旅ゆかば』のカテゴリーで72も記事をUPしている。こんな気ままな旅・ドライブを楽しめるようになったのが、平成12年4月から。あの頭突き契約を決済し、かなり懐具合が温くなってから。
例の堺・和泉高知県人会の総会で太平洋フェリーの往復券を頂いて足摺にむかったのが4月8日。
それこそ足摺・宿毛・大月・中村・四万十川を巡った最初だ。足摺の岬を巡り、ジョン万次郎を訪ね、四万十の赤目を眺めて、初めて青さのりの本物を味わい、天然ウナギの歯ごたえに驚いた。
この時、10日に明石に帰った直後に、高知のおばさんが亡くなったという知らせが届いた。
親父が一番お世話になったおばで、高知市で長年産婆を営み、取り上げたベイビーが6000人とかで、大臣表彰も受けているハチキン婆さんだ。
確かこの子で生み納めと、じいさんが末子と名ずけたが、その後に親父以下4人も生まれた9人兄弟の6番目。
昨日まで足摺に居りましたとも言えず、弟夫婦と妹を乗せて高知の町にとんぼ返りだ。
90歳を超えていたと思うけど、高知・須崎の従姉弟連中が集まりお別れをした。
その席上、東津野村の話が出て、上分の親父の一番上の伯母のお参りも兼ねて須崎に行き、そのまま東津野村へ行き四万十の源流を覗こうとなった。
そのころ我が頭にあったのは、今のような龍馬脱藩の道とか吉村虎太郎の天誅組始末ではなくて、土佐戦国七雄といわれた津野氏の勧請した東津野村の三島神社、津野の人といわれる五山文学の双壁とうたわれる絶海中津と義堂周信、津野山の義庄・中平善之進のことどもでありました。
すべて長年に亘る親父の津野伝説を聞かされた賜物であるんでしょう。
その時の写真も、ひたすら津野に係るものばかり写している。
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四万十の原流の一つ












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津野親忠公を偲ぶ茶堂