山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

長崎のジレンマ

 昭和20年8月9日軍都小倉上空で目視による爆撃を厳命されていたB29は、雲厚きことから原爆投下場所を長崎へと変えた。その長崎でも上空を雲が覆い目視投下が出来なかった。時間は刻々過ぎるし、仕方なく爆撃手の
大丈夫という声を頼りに原爆を投下した。
この時、やはり狙いは反れて、目標の長崎市中心から3.3K離れた浦上天主堂を直撃した。
皮肉にも、あろうことか、キリスト教の米国が、日本で唯一戦国時代から続いているキリシタンの流れさえ感じられるキリスト者のメッカ・浦上天主堂真上で原爆が爆発した。
結果2人の神父と8500人のキリスト教信者が殺戮された。
今日のテレビも特集していたが、広島の原爆ドームに匹敵する原爆遺跡といえる、この浦上店主堂が、いつの間にか取り壊されてしまった。
時の長崎市長も当初、天主堂を原爆遺跡として残すべきと言っていたはずが、終戦そうそうアメリカに招かれて帰ってからは、俄かに天主堂を撤去する方向に走った。
背後には、キリスト者に原爆を見舞ったことの後ろめたさがあったのか、このことが天主堂が残されることで、いつまでも語り継がれることを恐れたのか、米国の断固たる意図のもとに、天主堂は完全撤去されて、新たな天主堂が建立された。
かくして都合の悪い証拠をぬぐい去った筈が、被爆したマリア像が戦後数奇な運命を辿り、高さ26㎝の顔の部分だけを残す変わり果てた姿で発見された。
浦上キリシタンの昔より、聖母マリア信仰が盛んなことで知られていたが、このマリア像も1930年代イタリアから輸入されたもので、有名なスペインの画家ムリーリヨが17世紀に描いた、代表作「無原罪の聖母マリアの御宿り」すなわち聖母処女懐胎を描いた絵をモデルとして作られたといわれている。
2005年被爆60周年祈念事業の一環として浦上天主堂の一角に「被爆マリア小聖堂」が建立され、その祭壇中央に浦上キリシタン迫害時代の名残を留める柿木の根っ子の一部と共に今は静かに安置されている。
米国の原罪の証拠はとうとう消し去られることなくその罪のどれほど深いものか訴え続けているように感じる。
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