山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

海軍反省会と「冬の兵士」①軍令部の権限強化

 エノラゲイの悪意、長崎のジレンマと民主国家としての米国の恥部をえぐり出すことを書きましたがそれ以上に母国日本の今なお続いている許し難い体質について、その最たる証拠を突きつけられて、ここまで日本は追い詰められ、自暴自棄になっていたのかと愕然といたしました。
先日放映されたNHKスぺシャル「海軍反省会400時間」全3回。
この番組内容によりますと、戦後、やや終戦のほとぼりも冷めかけたころ、昭和55年3月28日を第1回として、平成3年まで、延べ130回以上にわたり、元海軍軍令部参謀連中が集まり、二度とこの戦争の失敗を繰り返さないようにと反省会を開いた際、収録されたテープ225巻が発見されたことから始まる。
毎回10人ほどの人数が水交会会議室に集まり、正直にあの戦争に至ったこと、誤ったことを議論していたなんて今まで全く聞いたこともなかったことから、私の関心は俄然高まりました。
一体、海軍軍令部という天皇統帥権を補佐するエリート連中が何処まで真剣にこの戦争を始め、そして終わらされたのか。その一言一言を聞き逃すまいと聞き耳をたててのことでした。
海に囲まれた日本は、いくら陸軍が権勢を張り、空威張りをしても、戦争となれば海軍の協力なくしては、一歩も前進出来ない。
この戦争遂行上の優位な役割を海軍が主張して、開戦の異を陸軍に唱えることは残念ながら一切なかった。
その上軍令部参謀が口を揃えて「本当にこの戦争がやれるかどうか、徹底的に突き詰めて検討することは一度もなかった。」と証言する。
海軍省兵備局長の保科善四郎中将が、開戦やむなしとの勢いに驚き、兵備計画を検討した結果、この戦備からしても戦争などとんでもないと声を挙げたが、その声は流れに流されるがごとく無視されたとの発言。
元来が作戦指導を本務とする軍令部が陸軍にあおられて開戦へとひた走ったのは何故だったのか。
その曲がり角・ターニングポイントを昭和8年10月1日の軍令部強化令が天皇の裁可を受けたことだと数人が証言する。
即ち、もともと海軍省担当だった兵力計画立案権限を軍令部に取り込み、「兵力量については軍令部総長がこれを起案する」となったことがそれだというわけだ。