山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

三島由紀夫・加古川・塩田晋

 2009.6.30のブログ「さくらんぼうと玉の緒地蔵」で意外な場所で三島由紀夫慰霊の碑を見つけたと記載している。あの市谷駐屯地に殴りこんで割腹自殺して果てた三島由紀夫が、意外や意外、加古川の志方出身であることは、ほんまかいなと念を押したほど結び付かなかった。
その後も気にはなってはいたものの、三島文学にそう惹かれることも無かったことから、実際に調べてみようという気にはなりませんでした。
そして偶然開いた塩田晋座談の中で先生が加古川三島由紀夫の関係を述べておられるのに出くわした。

三島由紀夫さんは、本名平岡公威さん。加古川の人だというのを加古川では知らない人が殆どですね。
徳川時代、先祖が西神吉の宮ノ前から志方・上富木にやって来た。もう何代も前ですがね。私の親父が小学校時代に、三島由紀夫のお祖父さんが志方を出まして、(帝国大・現東大法科卒ののち)岩手県の小沢さんの関係がある原敬という平民宰相。この人の懐刀でやっていた。樺太長官から満鉄総裁になるときに、それが実現しないで引退した。これがお祖父さん。内務省の名簿を見ますと、平岡定太郎、お祖父さんは明治25年の採用なんです。
私は昭和25年の採用で同じ名簿に載っています。息子さん、つまり三島由紀夫のお父さんも農水省、当時、岸信介と同期生で、一緒に東大を出て農商務省に入った。
当時、そのあと商工省と農林省に別れた。
岸さんは商工省に行き、平岡さんは農林省に残った。最後は農林省の局長をやりました。
岸信介は総理までなりましたから。親父さんはそうゆう関係。
息子の三嶋由紀夫さんや弟さんも皆官僚だったんです。
三嶋由紀夫は御存じの通り大蔵省で、弟さんは外務省。「仮面の告白」に少し出てくるんです。
志方に帰って徴兵検査を受けた。加古川で受けた。ということは本籍が亡くなるまで志方にあったんです。(注結婚に際して戸籍について確認騒動があり本籍を東京に移している。)
お祖母さんに言われて「お前は体が弱いから田舎に行って徴兵検査を受ければ兵隊に取られないだろう、行って来い。」と。
私と同年輩ですから、一緒の人が徴兵検査を受けた。その時、学習院の服装で来ていたものだから目立っていたでしょうね。見ていると、これくらいの米俵を地元の青年が軽々何回も上げるのに彼は胸までも上げられない。青白い。それでボデイビルをやったんです。そんな状況です。
すべると思っていたのに通つてしまった。それで入隊して病気になって帰ってきた。
親父さんと一緒に東京へ志方から帰っているんですよ。それでそのまま終戦になったんです。
もっと三島由紀夫を大事にしなければいけないと地元の人に言っているんです。
命日が11月25日で、私はちょうど当時、福岡県の労働部長をやっていたんです。
知らせが東京から入りまして、そのうちに亡くなったらしいと聞いてびっくりしました。
「なんで、死ななくてもいいのに。」と。
そのあくる年び志方に帰って、成人の日に、三島由紀夫の話をしたんです。
「皆さんと同じ、当時はまだ志方は町でしたからね、志方町に本籍があったんですよ、皆さんと戸籍が同じだったんですよ」と。志方には記念碑が立っている。そこに大阪や姫路からボランティアーで清掃してくれることが何年も続いている。私もずっと行けなかったのが、2・3年前から行くようになりました。この間も一緒に清掃したんです。
三島由紀夫のお祖父さんのお兄さんが平岡万次郎、お兄さんが次郎で、弟さんが太郎と言うんです。
この方が国会議員として明治の初めから4期、務められた。そういう意味では私は志方の2代目なんです。そんなことで色々な関係があります。』