山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

三人の二代目②

 宇喜多直家の毛利から織田への寝返りを受けて、領地安堵の許しを信長に得るべく安土へ向かった秀吉は、信長の「宇喜直家の如き薄汚い者を許すわけにはいかぬ」と一蹴される。
備前美作50万石の所領を持ち、三十の城と1万5千の兵を持つ直家の帰趨がその後の毛利との戦の勝敗を握ることは自明。信長からは、よくぞやったと褒められるつもりの秀吉は、信長のこの判断に大いに戸惑う。
続いての「小城の二つ三つならともかく、備前美作五十万石の大領を許す訳にはいかぬ。余計な策など練らず、早々に立ち帰って戦に励め」の信長の言葉に、今自分が立たされている危うさに気付き、三木攻め専一の結論を出した。となれば、一刻を争って播磨に戻り、何が何でも結果を出さないことには、己の首も危うくなる。
帰路を急ぐそんな時も時、有馬の湯あたりで「本日未明丑の刻(午前二時)、毛利の水軍二百隻ほどが魚住に来襲しました。大勢の兵と強力(運搬人夫)を伴っており、三木城への兵糧搬入を企てるものと見られます。」との注進が届いた。
この地魚住の名が初めて出てまいりました。