山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

1945年7月7日明石大空襲

カテゴリーの私的歴史観とは特に自分の身近で遭遇した歴史上の事実に対する感想という意味だ。
今日の神戸新聞明石版。戦禍の記憶2010あかしのタイトルで1945年7月7日の明石大空襲の特集記事があった。
ここのところ、憎むべき殺傷兵器焼夷弾の開発目的を考えてみたが、その標的にされたのは内橋克人氏だけでは無かったんだ。
7月7日未明、川崎航空機を標的にした従来の爆撃とは異なり、焼夷弾を使った市街地への無差別爆撃攻撃が行われた。
明石市史によると、この空襲での死者360人、全焼9075戸、罹災者3万6410人。
死者がおおかったのは2番町、川端通1-2丁目 、罹災者が千人を超えたのが樽屋町、、大明石町、西王子町、西新町1,2丁目、東王子町、新明、新浜だった。
私が生まれて育てられていたのが西新町。母方の爺さん夫婦が営んでいた理容院・源床の直ぐ近く。
今思い起こせば、私の人生最初の記憶として少年時代度々夢に見た、岡の上から見渡す街の黒い影の向こうが真っ赤に見えた光景がまさにその空襲となる。3歳と9カ月だった。
と言うのも、弟が今の神戸市西区上津橋の疎開先の納屋で生まれたのが8月5日。
一家はその後、西新町に戻ることなく、上の丸の四郎叔父宅に居候することになったから、西新町の借家も罹災したに違いない。
ひとつ間違えれば、気休めの防空壕焼夷弾の餌食に、標的になっていてもなんの不思議もない。
臨月の腹を抱えて逸早く疎開していた両親の判断が一家を救った。

追記・・・この空襲については2008.7.9  2008.7.10 にも考察しています。乞う参照。