山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

広島・原爆の日

 祖父(義父)の弔いは孫のお祭り。さすれば曾孫にとっては盆と正月が一緒に来たようなものか。
我が家の曾孫3人は散々暴れて帰って行った。しかし、不思議と会葬の際は神妙で紅葉の手を合わせて頭を下げる。
祖父の故郷は広島の能美島村上水軍の末かと思っていたが、本家の甥の話で尼子の重臣がその出自と分かった。
弘子ちゃんの祖父は能美島で海運業を営み、勿論船持ちであった。
その祖父が原爆の落ちた翌日。広島に出かけたまま帰って来ない兄弟を探しに太田川当たりに上陸。
さんざん探したが見つからず黒い雨にも降られて帰って来た。
その際の悲惨な状況を語ることは何故か無かった。言葉にすることに耐えられなかったのか。
このため後年きっちりと原爆症が発症。最後は胃がんが原因で70前後で亡くなった。
この祖父に弘子ちゃんは可愛がられて一緒に錦帯橋見物をしたり、フルートを買ってもらったりしている。
広島の原爆と聞くとこの事を思い出す。
我が息子の3男がどうやらこの祖父の血脈に思えてならない。
やはり、危篤の知らせに能美島へ駆けつけ、小康を見て一旦明石に帰ってみると、明石駅改札に弘子ちゃんの姿があって、爺さんがいけなかったと告げた。清志親父と二人がその場から取って返して告別式に参加した。そんな経緯を思い出す。
やさしくて思いやりがあって、賢い爺さんだった。