山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

幻の土佐沖海戦・第128震洋特別攻撃隊

 太平洋戦争の戦史を調べていてこれ程の人間軽視も極まる諸事実の中でもその効果(戦果)に於いてこれ以上の悲惨はないと思われる特別攻撃・特攻が震洋特別攻撃であります。
先に結論を云えば、学徒兵・海軍飛行予科練生6000人が投入され、そのうち2557人が戦死したとされる。
そして確認された戦果は米国の発表では4隻の被害。それも沈没は1隻のみとのことだ。
その中でも、馬鹿馬鹿しさを東リ過ごしているのが幻の土佐沖海戦だ。
既に終戦詔勅が達せられた翌日。昭和20年8月16日午後7時頃、高知県須崎の第23突撃隊司令から「本土上陸をもって敵機動部隊が土佐沖を航行中、直ちに出撃してこれを殲滅すべし」との戦闘命令が、23突撃隊の震洋隊・回天隊へ命令された。
手結基地「震洋」隊でも直ちに準備にかかり、「震洋隊」試運転中に突然一艇から発火し、22隻が次々と爆発し搭乗員、整備員111名が爆死した。
この誘爆を発見した見張り所はあろうことか「敵機動部隊、高知平野東部手結岬方面を砲撃中。目下付近の海軍特別攻撃部隊は続々出撃、戦果拡大中」と打電。これを受けた陸軍四国防衛軍は大本営に「敵艦船と我が海軍部隊は抗戦中」と報告した。
四国在の各部隊は一斉に戦闘配備につき、第23突撃隊本部から須崎と浦戸の基地回天隊にも「回天戦準備」が発令された。
翌17日、このドタバタ劇は誤報であることが判明し、各隊の戦闘用意は解除された。

この悲劇は終戦のドサクサに紛れて忘れ去られていたが、昭和31年になって地元の夜須町有志が立ち上がり奉賛会を結成され、「震洋隊殉国慰霊塔」を建立され、毎年8月16日に慰霊祭が執り行われている。
この16日の慰霊こそ、喪わなくとも済んだ有為の青年達を惜しんでなおこの戦の如何に悲惨であったかを語り継ぐ人々の抗議とも言える強い意志を感じる。

その慰霊碑の立つ手結港の県道を知らぬばかりに通り過ぎ、あの可動橋は珍しいねなど、のたまわっていたのは私です。知らぬ事とは云え申し訳ない事をした。慙愧に堪えません。
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