山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

筑前勤王党の悲劇①

案外忘れられているのが幕末福岡藩の動きである。
今、NHK龍馬伝ではまるで薩長同盟が龍馬のオリジナルな発想で、同盟成立も龍馬が一人で取り仕切ったかのような話になっているが、決してそうではなかった。
そもそも薩長両藩の和解をもっとも早く模索したのは福岡藩だった。
薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)の十三男として生まれ、1834(天保5)年福岡藩主となった黒田長薄(ながひろ)は、ペリー来航の際には幕府の無策を批判する建白書を提出するなど積極的な開国論者である。
この長薄のもと、家老・加藤司書、月形洗蔵、中村円太、平野国臣、早川勇らを中心とする筑前勤王党が結成された。
国難に際して国内で争っている場合ではない」という考えを持つ長薄は、1863年に京を追われた長州藩への寛大な措置を朝廷に願い出たり、長州征討の際に穏便な解決を総督らに働きかけたりと、長州擁護姿勢を打ち出す。
その一方で、月形と早川らは、1864年10月、筑前を訪れた西郷に長州との和解を説得し、12月には長州急進派の雄である高杉晋作と西郷との密会を実現させるなど、同盟締結に向けての歩みを始めた。