山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

福岡筑前藩勤王党の悲劇②

ところがこの頃より朝敵とされる長州を擁護する福岡藩に幕府が疑念を抱き始めた。
第二次長征が行われれば福岡藩もその標的になるとの風評が立った。
之に動揺した藩内では保守派が勢いを盛り返し、勤王党と対立するようになった。
そこで加藤は、藩内の意志統一を図って「藩議基本の建議書」を認め、藩主長薄に提出、その内容は「皇国のためであれば幕府との対立も止むをえない」とするもので、これを読んだ長薄は激怒。
現状を憂慮していた長薄は、加藤の建議を説教のように、また強制するかのように受け取ったのだ。
1865年7月、突如藩士並びに関係人140名が逮捕され、長薄は加藤に謹慎を命じ、勤王党の大粛清を開始した。
結果、10月には加藤ら7名に切腹、月形ら14名は斬首、野村望東尼ほか15名が流罪と云う大弾圧となった。これをのちに「乙丑(いっちゅう)の変」と云う。
かくして、この変事により人材を一気に失った福岡藩は時代の流れに大きく取り残されて行くことになる。