山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

クリチバ・植物園での出会い・草川ジノ(整形外科医40歳)

サンパウロでの世話人・立花氏がなんと、今回のもう一つの大事な目的である、昭和12年頃ブラジルに移民した親父の姉一家の消息を確かめる手がかりの津野義雄(姉三男)の近所に住んでいて、おまけに義雄(姉・次男)の息子・医師進とは仕事上のお付き合いがあり、その娘エレナの☎も知っているという奇縁に導かれて、クリチバ二日目の朝、草川ジノ君がマブホテルへ尋ねて来てくれたことは、前回動画を取り敢えずUPして報告に換えた。
その日の午後には次の目的地・イグアスに向かって出発する予定があり、やっとのこと植物園入口のテラス喫茶で一時間余りジノと話を交わすことが出来た。
ジノは幸雄(私とは従姉弟)の直系の孫で、我が息子達と同じレベル。写真のようになかなかの体格で、聡明な顔付きの整形外科医であると言う。
我々日本の一族がブラジルはどうしよると心配していると同じように、ブラジルの一族も日本のことを心配していたと言う。ブラジル一族には、チョット聞いただけでも、医者が三人に科学者、弁護士とかなりハイブリッド。こりゃ、内地もしっかりせんといけません。
印象に残ったのは、ジノが三年前に亡くなった幸雄爺さんのアルバムを大切に持参してくれたこと。その上、津野興亡史のコピーも持っていて、我が津野氏についてもかなり勉強していることだった。
お互いのポジションを確かめ合って、今回一族の家系図を作成する意図も説明。ブラジルの一家の消息を分かる限りで連絡してくれるようお願いした。
お互いのこの奇縁を喜んだ後は、持参していたアルバムを覗きながら、そこに映った人物の説明をひたすら聞いた。
一家はブラジルに渡って直ぐに、頼りにしていた親爺さん(津野豊美)を1947年に亡くし、以後は鶴子叔母と5人の兄妹が力を合わせて、戦後を生き抜いて来たこと。その鶴子伯母も1996年には亡くなったこと等辛い話もあったが、5人の兄妹に20人の子が出来(内2人は死去)、それぞれが結婚して出来た子供がもうジノのように40歳前後になっていることを知る。
アルバムには、日本から送られた年賀状から写真から、克明に整理されいて。望郷の念あふれる心情が感じ取れた。
我が清志一家がお正月に自宅前で撮った写真も貼り付けてあって驚いた。
その中の一葉。母鶴子伯母さんの傍らに寄り添う義雄さんの柔和な笑顔を見つけたときには、是非ブラジルにおいでと誘ってくれていた時、もう少し早く来ておけば良かったんじゃないかと臍を噛んだ。