山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明石駅前私的開発・・・昭和41年ダイエー明石店手始め

明石市長は泉房穂氏に決定。当選の言葉として「市民の為の市政」と吠えていたが、近来までの明石駅前開発事情を少々レクチャーします。
明石財界にN・ゴッドファーザーあり。取り巻きはN天皇とも言いあっていた。金融機関の信用抜群で、謂わば金融ブローカー。
N神社とも称し、その神主役を務めたのが私の親父と、今回の泉市長の奥様のお爺様でした。
旧錦江ビル・第2錦江ビル・藤田ビル・新納ビル・柏木ビル・第一明宝ビル・第二明宝ビルと今駅前に姿を止めるビル群の殆どのプロジェクトを指令した。1966年昭和41年ダイエー進出の折には収支計算を鉛筆を舐めながら練り上げたと聞いた。勿論建築はA土建。
結局はその当時に建った建築物がほぼ全て老朽化して、これを何とかしないことにはお客も寄り付かない駅前となり下がりつつある訳だ。
このゴッドファーザーも姿を消して早や数十年。いまや覚えている者の方が少なくなっている。
この様に、これまでは明石駅前は民間の一個人の手によって為されてきた訳で、今やその当時のビルオーナーの子・孫が古くなった建物を抱え込んで途方に暮れること必定。そこで浮上したのが役所主導の中心市街地活性化という手法だった。
昔、追手町と称していた頃は2号線沿い北側は映画館が軒を連ね松竹・東宝(山陽座)・東映白鳥座(洋画専門)日活と居並んだ娯楽の中心地だった。
大明石町となってからはダイエーの有力店として全国売上ベスト10に名を連ねた。
そして今や、オンボロビル街となり昔の面影は何処を探しても見受けない。
駅前と2号線を繋ぐ山陽横町は昔はションベン横町と別称され、道の両脇には赤い鳥居が張りつけられていたもんだが、いまやションベンに立ち寄る人影も無。
明石駅前の活性化なしに明石の発展は望めない。この事は新市長も十分分かっているはず。
この難問を前向きに解決する事が彼の声望を高める最善の方法だ。