山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

G23回 嶽元幸広主将回顧


淡水サッカー80周年原稿
    G23 嶽元 幸広

昭和44年に商大に入学、中高とやってきたサッカーを大学でもと思い早々に入部を決めました。最初はやたらと体力トレーニングが多くて、練習が辛くて仕方がなかった印象があります。それでも徐々に体力がつき始め、夏の大津・皇子山の合宿を経て秋のリーグ戦を迎える頃には、1回生でしたが、同期の小浜とともにレギュラーとして試合に臨めるような状態になっていました。この秋の3部でのリーグ戦は、桃山大との雨の最終戦を私のハットトリックもあり5対0で完勝し、6勝1敗で優勝。その後の2部の大阪市大との入替戦も武山先輩の猛牛のような突進で得た1点が決勝点となり1対0で勝利、悲願の2部復帰も決めました。祝勝ムードで何か盆と正月が一緒に来たような雰囲気だったと思います。当時のキャプテンは水野先輩で、今日まで公私ともども長いお付き合いをさせてもらっています。同期は上述の小浜(HB)に横山(GK、SB)、中田(CB)と私(CF、HB)の計4名、厳しい練習に耐えた者しか残らなかったと思います。

翌年の武山キャプテンの年は、2部での実績を残すためにさらなる猛練習が始まりました。まずは体力から2部のレベルにということだと思いますが、バーベル、ダンベルを使った筋力トレーニングが取り入れられました。又、「限界での挑戦」というキーワードをもとに全員に厳しい練習が課せられました。
この年に八隅、その翌年以降に鈴木、立花とチームのセンターラインを支える人材が入部して、私が4回生でキャプテンを引き受けたときは、商大は2部の中堅のチームであり、メンバー的にもピークの水準にあったと思います。又、部員の数も、少なくても紅白戦ができるまでにしなくてはと積極的に勧誘して回ったことより、大幅に増加したと思います。

4回生で迎えたリーグ戦では、まずは失点を抑えるということから堅守速攻のチームを目指しました。それは緒戦の神戸大での勝利、強豪大体大との引き分けという上々の結果をチームにもたらしました。しかし、長いリーグ戦を乗り切るためには明らかに戦力不足であり、負傷等で1人でもレギュラーが抜けるとチーム力が大幅にダウンしてしまうことは避けられず、これが阪大、立命館の2敗となり、1部との入替戦を逃す要因となりました。もし、常にフルメンバーで戦えるのであれば2部のレベルなら負けないチームはできていたのではないかと思います。

一番印象に残る試合は、フルメンバーで戦った大阪体育大の試合であり、厚い守備で相手にチャンスを与えず、鋭い攻撃でチャンスを作り、PKで先取点を得て主導権を握りました。その後同点にされましたが小浜の惜しいシュートを相手GKが辛うじてセービング、八隅の独走シュートが外れるなど相手に主導権は渡さず、優勝候補を大いに慌てさせました。この試合が当時の商大のサッカーの集大成とも言える試合だったと思います。私は残念ながら後半に痛めていた膝を蹴られて退場、最後までピッチに立てませんでしたが、チームのファイティングスピリットはそれをカバーしてなお余りあるものでした。
 最後に、商大でサッカーができたことは幸運だったし、チームのメンバーにも恵まれました。こんな有意義な4年間は望んでも与えられるものではなかったと原稿を書きながらしみじみ思います。
(対戦成績)
3−2 対 神戸大
1−1 対 大阪体育大
0−1 対 阪大
0−2 対 立命館
2−0 対 近大
 2−0 対 甲南大
 1−1 対 天理大
 3勝2敗2分