山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

G22回  中村賢一回顧


 学部22回  中村 賢一

最後のホイッスルを聞いてから、かれこれ40年近くたってしまいました。
いったいどのようなシーンで終了のホイッスルを聞いたのでしょうか。
まるで記憶にありませんが、さぞかし悔しい思いをしたのであろうと、戦績を見て想像しています。
ただ、大阪体育大学がやけに強かったという印象が残っています。
基礎体力、基礎技術、戦略それに根性、どれをとってもわれわれには歯が立ちませんでした。
結局大阪体育大学が、下部から一気に我々を追い抜いていってしまいました。

私たちの代は、サッカー経験者が少なく、私自身も高校まではバレーボールをやっていました。
私たちにとってのサッカー人生の始まりは春の合宿でした。
基礎体力の向上が大きな目的の合宿であり、走らされたり振り子をされたり、おまけに練習の準備や後片付けでかなり体力的にきついものでした。 ある朝目が覚めると同期の一人が見当たりません。 夜のうちに逃亡してしまったのです。 その時のキャプテンが水野先輩であり、骨折が治ったばかりというのに走るのが大好きなようでした。 ちょうど第二神明が工事中であり、それを利用して明石天文台往復の長距離でした。 行きはまだ元気ですしついていけるのですが、帰りは海岸沿いの国道です。 最後は高丸までのきつい上り坂が待っています。 逃亡者が出るのも当然だったのかもしれません。
武山キャプテンの時代になると、少し様相が変わってきました。キャプテンが走るのがそれほど得意ではなかったのです。その代り、当時はやりだしたウェイトトレーニングが盛り込まれてきました。これは、景色を愛でることもできず、まことに地味な基礎体力造りでした。
一方、この時代にわれわれのサッカースタイルに少し変化が表れ始めました。優秀な後輩達が入部してきたのです。彼らを起点にゲームにスピードの変化や展開を考えることができるようになったのです。もちろんその他多くのメンバーはそれまでどおりの訓練されたガチンコサッカーしかできないのは当然でしたが。特に矢頭君は柔道をやっていたせいかも知れませんが、けがを恐れない闘志の持ち主でした。広大に遠征したときのことです。私の弟が広大のサッカー部に在籍しており、敵として対戦しました。試合後弟が私に言った言葉は、“兄貴のチームはガンガン突進してくるから怖いな”というものでした。もちろん矢頭君はリーグ戦中に救急車のお世話になっています。
でも、私にとってはサッカーの面白味がそれまでとは違ったものになり、結局現在でもシニアでのサッカーを続けることになってしまったのです。
さて、4回生になると私たちも一人前にチームの方針には悩みました。タルミヤンで何度かミーティングを開いて論議を繰り返しました。実は困ったことに、まじめで基礎練習好きな新キャプテン矢頭君以外はみんな大の練習嫌いなのです。でも我々も最上級生であることの自覚を持つことができるくらいには成長しておりました。武山先輩の流れを引き継ぐことを軸としたチームづくりとし、少しは新しい試みも取り入れていくことにしました。幸いにも矢頭君は研究熱心であり、いくつかの新しい練習方法も取り入れることもできました。そうしてタレント豊かな後輩達を軸としたチームでリーグ戦を戦うことになったのです。もちろん我々4回生も、自分のポジションに責任を持つことで、チームを引っ張る自覚は持つことができるまでにはなっていました。
結果は2部残留にとどまりましたが、後輩達が1部昇格を実現してくれるに違いないという手応えは感じることができたのですが・・・・。実際に一年後のチームは私の知る限り、歴代で最高レベルのチームであったと思っています。後輩達に感謝、感謝!!
最後に、現役時代歴代のガチンコサッカーの代表者を挙げますと、岡田先輩、小笠原先輩、矢頭君、中田君、八隅君といったところでしょうか。素晴らしい猛者の方々でした。

1971年(昭和46年)リ−グ
  本学 7−2 大府大
     2−2 天理大
     1−2 大阪大
     2−0 神戸大
     1−6 京産大
     1−6 大体大
     4−2 甲南大
   3勝3敗1分 2部5位