山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

11月14日

14日になると、寺田屋お登勢が龍馬の身を案じて手代の寅吉を寄こします。寺田屋は、薩摩藩の定宿ですから情報が入ったのでしょう。
しかし、龍馬さんは笑って相手にしません。「昨日も永井に会ってもらった、松平容保にも会いましたよ。」しかも容保に安心せよと言われているから大丈夫だと寅吉に話しています。
まあこれは龍馬さんの一流のハッタリで、会津藩側の記録をいくら調べてみても、龍馬さんと容保が会談した記録は出てきません。
実際には、龍馬さんは会津藩の人物と交流が有りました。この年の2月には神保修理と会っているのです。
彼は会津藩の家老神保内蔵助の子で、藩内ではn珍しい新政府への恭順派でした。
龍馬さんは彼を高く評価して「会津には思いがけない人物にてありたり。」と記している。
神保は結果、あまりにも恭順を説いたため藩内で疎まれ、鳥羽伏見の戦いの直後に切腹に追い込まれました。
永井が会津藩に「坂本龍馬からお前たちが捕えた下手人を釈放してほしい」と云って来ているが、話し合いに同席しないかといい、会津藩の立場のある人物が、同席した可能性は有り得る。
そこで、龍馬さん本人は幕府や会津の人間が会ってくれるということは、命の保証されたと解釈してしまった。
だが、仮に上層部がそう思っていたとしても、現場の人間、見廻り組の実行部隊の者どもは、あくまで龍馬さんを憎しみの目で見ている訳で、決して安全と云えるものではなかった。