山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明石ジャズのルーツを語る

2011.925TACOTACO JAZZ FESTIVALは明石市内のライブハウス専属・推薦のバンド8グループが正午から6時まで、延々と演奏を繰り広げた。
25年前ボサリオ閉店の頃は市内にJAZZライブの店は一軒だけで、ほんと火が消えたような寂しさを感じたものだ。
会場に着いてみると、アスピア9階の入り口辺りから、人が溢れて整理券を貰って順番を待つ状態だ。
明石市は歩道橋事故のあと、会場に立ち見を許さなくなっていて、今回もそれは厳しく守られている。・・立ち見でいっぱいの会場は、プレーヤーにとっては随分と励みになるんだけど。羹に懲りて鱠を吹いてるんだ。

やっとの事、ロビーにたどり着くと壁一面5枚に渡って1980.7.16「トランペット・メルヘン」のプログラムが大きく拡大されて掲示されている。ほとんどの人は気にもしていないようだったが、私にはこのことで、今回の主催者・薮内君の
気遣いと意図が読み取れた。
早速、前説の内容を、このトランペット・メルヘンに至る伊藤隆文(ターヤン)を中心にした明石JAZZのルーツを話すことに決めた。
出番は、特別ゲスト・ロイヤルフラッシュっジャズバンドの出番前15分と指示があった。
このご機嫌なデキシーバンドの出番の頃は、お年寄りにはちょいと遅すぎて、席を立たれる方もかなり見られる。一部と二部の間に挟めばよかったのかも。
弘子ちゃんに頼んで、小生の前説をビデオどりしているが、今も見直しながら蝦蟇の油状態で、俺ってこうなんだと言い聞かせながらUPする勇気が起こらない。
会場にはターヤンの娘さん夫婦を始め、一緒に演奏を永年楽しんだ連中が顔を揃えて私の愚談を聞いて頂いた。

話しながら合点がいったのは、我々が育んできた明石ジャズの受け渡しを今日宣言するべきだということ。
そこで、スピーチの最後に、ターヤンのトランペットバトンを継ぐべき薮内良治君を舞台に呼び出し、その旨を宣したつもりが、写真のように中途半端に終わってしまった。・・しかし、気持ちだけは伝わったかな。