山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明日のJAZZCONCERT前説・さて何を話そうか。

「つのしんの独り言」読み返していたら、2008.8.19に記事があった。それもタイトルを「デキシ^−ランドジャズ・その知り始め・伊藤隆文の事①とあって、中途半端な文章で、②がどこを探しても出てこない。
これは、とりもなおさず明日②の話をするために書かずにいたものなのか。・・・そんな筈ありません。

『さんようクラッシックレコードコンサートは昭和42年11月17日・第228回をもって終了し、第229回(昭和43年2月21日)目をLIVE演奏として、その幕を閉じている。
奇しくも11月17日は親父の誕生日だったんだ。その時お招きしたバンドの一つがデキシーランドジャズバンド「伊藤隆文とファニーメン」だったんだ。
この話をすると永くなるんだけど、経緯だけ述べると、前年の10月15日私たち伸一・弘子の結婚式に花を添えていただいたバンド「ファニーメン」は、明石高校音楽部の大先輩にして、かっては「日本のアームストロング」と謳われたトランペットの名手・伊藤隆文ことターヤンを中心に、関西学院軽音のOBも交えて集まっていたコンボバンドでありました。
そのターヤンは今日現在、肝臓を患って明石市民病院に入院中で、近々手術の予定とか。
まさに40年前、その後のナガ―――イお付き合いの最初がこの時だ。

ターヤンといえば、明石高校を卒業後、関学の軽音、それもデキシーバンドのトランペットとして、伝説の右近雅夫とともに神戸ジャズの草分け的存在と言われた。
1956年関学卒業後プロを目指して宝塚歌劇オーケストラ部に合格していたが、友達に誘われて「伊藤隆文とニューオリンズ・シックス」を結成して京阪神のジャズ喫茶まわりを3年間。
そのあと、上京、「チャーリー石黒と東京パンチョス」等のバンドを渡り歩き、キャリアを積んだ。
私が弘子ちゃんと一緒に、神戸国際会館労音公演で拝聴した時は、「薗田憲一とデキシーキングス」の名物PETとして、その独特のというよりも、サッチモにそっくりな歌とともに、おもろいラッパとの印象が今に残っています。
それ以前には、明石高校音楽部で東京でプロのラッパ吹きが3人(森・本木・伊藤)おられると聞かされていました。
私が2年の時、全日本吹奏楽コンクールの名古屋大会で優勝した際、たぶん朝日テレビに招かれて演奏を放映した番組のゲストとして招かれていたのが、伊藤さん。
「ダニーボーイ」をソロで吹かれた時の、なんとぶっとい音なんだろうと驚かされたご本人。
ニューオリンズ・セブン」という自分のバンドをひきつれて、主に進駐軍のキャンプ回りの営業。これが受けに受けたそうな。
まあピアノのナッカン(故人・中川宗和)の昔話をきいているだけでも、もう無茶苦茶。とてもこのブログでは書けない行状ばかりです。
そして沖縄へ行った際、トロンボーンが舞台上でラリッちゃってステージぶち壊しとなり、進駐軍からきついペナルテイーの請求がきた。
遊び暮らし・その日暮らしの身ではとても払えたもんではない、とうとう明石の親父さんに泣きついたはいいが、その条件が、明石に帰って酒屋を継ぐなら、金は出してやる。
かくして帰明はしたものの、JAZZと縁をきれるわけがない。しかたなしに弟・啓三(TB)、今井正芳(BASE)他を呼び集めて楽しんでいたのがこのファニーメンでした。』