山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

203高地の真実②攻城戦

明治も37年となれば、明治天皇の御代いよいよ平けく、その中で亡国の危機ともいえるロシア帝国南下膨張策により、堪らず宣戦布告したものの、陸軍は兵数で10倍以上、海軍は艦艇総トン数で2倍以上の兵力差。
それ故、日本陸海軍は短期決戦こそ唯一の勝算としたが、海軍の旅順艦隊撃滅失敗により、陸軍に想定外の旅順要塞攻略という運命的な戦いを強いることとなった。
そのため急遽編成されたのが第3軍。その司令官には2年7ヶ月休職中の乃木希典中将が明治天皇の全幅の信頼を受けての起用だつた。

乃木はその経歴において北清事件の際の馬蹄銀事件、また明治10年西南戦争の際の軍旗喪失等、悲運が付いて回ったが、いよいよこの満州へ最後のご奉公との決意を秘めての出陣となる。
しかし、その眼前を阻む想定外の堅固さへと変身した旅順永久要塞のことも知らず。おまけに参謀本部の怠惰、誤認により旅順守備のロシア軍兵力についても守備兵1万5千、火砲2百門と過少評価。
実際は、兵力4万4千、火砲646門と3倍の規模充実で、おまけにマンドリンと称された軽機関銃を無数に装備、これにより夥しい日本兵の流血を強いた。

古来、攻城戦においては攻撃側には籠城軍の3倍の兵力があって同等と言われてきた。
それを、籠城軍以下の兵力装備で攻めざるを得なかった日本軍は、緒戦特に攻撃に必要な砲兵の弾薬準備が出来ていなかったため死傷者の拡大を招いた。
おまけに海軍からはバルチック艦隊迫るとの観測から、旅順港を観測砲撃するための高地確保の矢の催促が来る。
常人なれば、いや今時の日本人なれば一刻の辛抱もならない地獄の戦場が繰り広げられるのはもう間もなくのこと。