山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

石谷家文書発見

従来見過ごされていた、長宗我部と明智光秀との関係の深さを証する石谷家文書が発見されて、話題を呼んでいる。
その文面の切迫さといい、信長四国征伐をまじかに、元親必死の交渉を明智一派を通じて行っていた証左である。
事実、本能寺の変四国征伐開始と重なり、いよいよ光秀の信長殺しの大きな動機に違いないことが分かる。
信長ー光秀ー元親の不興が天下布武を一次挫折させ、秀吉による天下統一まで騒乱を引き伸ばした。
もし、この変が無かったなら、その後の日本はどんな姿になっていたのだろうか?

そして、秀吉亡き後、関が原に心ならずも西軍として参戦した長宗我部盛親は、家康に許しを請いに大阪に出向く前、兄である元親三男・津野親忠に詰め腹を切らせ、その咎めとして、土佐一国を取り上げられた。
家康の島津封じ込めの一手として、山内入城となったが、長宗我部恩顧の下士と山内侍の上士の軋轢はその後、幕末まで続き、幕末草莽爆発のエネルギィーを溜め込むこととなる。
その火付け・導火線の一人が龍馬と言うことになる。