山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

松井隆司指揮・伊川谷北高校吹奏楽部第16回定期演奏会を聴いた②

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一方、松ちゃんこと松井隆司先生との御縁はこれまた語り尽くせないほど思い浮かぶ。
最初に松ちゃんに出会ったのは、彼が神戸大学教育学部附属明石中学2年の時かな。私たちは3兄妹で4歳下の弟・啓三と8歳下の郁子。不思議なことに難関入学試験をくぐり抜けて3人そろって附属小・中とお世話になりました。その妹も附中のブラスバンド部に入りクラリネットを吹いておりました。そのころのブラスバンド部顧問は赴任2年目の川端敏夫先生。天然パーマの優しげな先生だったことを思い出します。そして松ちゃんは妹と同級生でトランペットを吹いておりました。松ちゃんのお母さん・松井きぬ先生(教員)は一人息子を音楽の道に進めるべく、幼少の頃よりPIANOを習わせ、中学ではトランペットというわけです。たぶんトランペットは松ちゃん自身の望んだ楽器ではなかったかな。線は細いが美しくメロディーが吹けるタイプであったと思います。川端先生が附属明石中学の記念誌・「30年のあゆみ」で回顧されているのを拝見しますと、赴任された当時、ブラスバンド部は部員わずか3人という惨状であったそうです。しかし2年目、松ちゃん達がたくさん入部してくれて、彼らが2年となったとき、最小編成の人数がなんとか揃ったと書かれています。ちょうどそんな時、商大生2年のひと夏、ずうずうしく押しかけて、是非コンクールに出てみてはとそそのかし川端先生をその気にさせたのは私です。この吹奏楽コンクール・中学の部(B)に出場するということは、附中にとって結局空前にして絶後のイベントとなりました。せいぜい士官候補生とか錨を揚げての演奏で事足れりとおさまっていた連中に自由曲「軍楽隊のための第一組曲から・行進曲」(ホルスト)という、かれらにとっては大変な難曲を持ち込んだものです。ちなみにこの曲は昭和38年(1969年)呉教授のお父さん・呉幸五郎氏の指揮で明石高校OB吹奏楽団が福岡の八幡市民会館での全日本吹奏楽コンクール一般の部で全国3位に輝いた際の自由曲でありました。そんな大曲を押し付けたてまえ、その夏はつきつきりで練習に付き合い、予選の舞台袖まで付き添いをかってでてものです。その際松ちゃんが唇が渇くといって、しきりにウオータースプレイを使っていたことを覚えています。だけどこの壮挙?のためか、この時の部員の結束は強く、他に3年生の古閑・竹元・足立、2年生の大脇・今村・石川・田辺などの名前を未だに覚えています。
その後の松ちゃんは明石高校音楽部・大阪学芸大学特設音楽科にすすむわけだけど、コンクールへの指揮者デビユーは大学2年時昭和43年(1968年)明石高校OB吹奏楽団を率いての兵庫県吹奏楽コンクールだった。8aae5878.JPG