山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

出てこいよクレージー広瀬君

 今日はひとまる倶楽部の2大イベント、アンサンブルコンテストと明石小学生駅伝の反省会兼おつかれ会。
明石吹奏楽連盟からは阪本先生が出席、彼は明石高校OB吹奏楽団の後輩で、気心も知れていて、アンサンブルの反省はそこそこに、昔話に花が咲く。

「ところで広瀬君というトランペットがいたよね。彼どうしてる。」と尋ねると、時々演奏の応援を頼んだり、いまも音楽に関わっていますよとの返事だ。
H君、我々夫婦はクレージ広瀬と呼んでいた。
まだ明石ダイエーの地階で居酒屋ブラジルという怪しげなお店をひらいていたころの常連、というよりラッパ仲間。
東京の有名ビッグバンド・ブルーコーツの巡業の途中、神戸あたりで1日開いてしまったので、何とかしてよとOB関谷氏からの至上命令で始まった明石市民会館での「トランペット・メルヘン」と称しての
JAZZCONCERTBIGBAND祭り。何せ1600の座席を埋めないことには申し訳ないとばかりに、市内中高吹奏楽部の顧問の先生に泣きついて生徒達にまで直接宣伝させて頂いた。
そのコンサートを聞きに来てくれた生徒の一人が広瀬君だ。確か大久保中学のトランペット吹きだったと思う。
その彼は、後になって聞いたんだけど、そのコンサートで聞いた明石出身のJAZZトランペット4人の演奏を聴いてJAZZの虜になってしまった。
明石北高校音楽部から音大と進みながら、尼崎のキャバレー赤玉でプロの、汚れのラッパを吹きながらJAZZ一筋に食っていたらしい。
和歌山の志摩スペイン村で音楽隊で凌いでいたころの話で、スペイン娘マリアと良い仲になっていたが、彼女が帰国となって、なんと後を追いかけて行っちゃった。けれど、どうやら国にはマリアの許嫁がいたらしく失意の帰国となったらしい。等トランペット吹きのお約束の酒好き・女好きが付いて回っていた。今時珍しいラッパ野郎だ。
その後、カラオケの打ち込みなどやっているとは聞いていたが、あたら優れた才能を持て余してんじゃないのかな。あの時、我がJAZZコンサートを聴くことなく、音大を出て学校の音楽教師の道を歩んでおれば、良い指導者になったじゃないのか。
しゃぶしゃぶをつつきながら、阪本先生に、一度広瀬君に連絡を取ってよ。津野が会いたがってると伝えてと頼んでいた。