山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

『さんよう喫茶』⑪ある意味素晴らしい家庭環境

2cd7d981.JPG学校の思い出はあまり浮かんで来ないが、この映画館街での暮らしは色々思い出す。そのころの国道2号線にしても、今では考えられないぐらい車の通行も少なくて、悠々とローラースケートを履いてアスファルトの上を走りまわる。お互いが車が来るのを見つけると、車が来るぞと教えても十分退避する余裕がありました。一方映画館といえば戦後庶民の唯一の娯楽の場として大盛況。チケット売り場では、お札の束をみかん箱に足で踏んづけていれてもまに合わぬぐらい。立ち見などは常識で、連日満員御礼。たまにスターの実演挨拶などあろうものなら、一目見ようとする人波に押しつぶされそうになる。銀幕では、あらかん(嵐寛寿郎)の鞍馬天狗が大活躍。杉作(美空ひばり)危うしとなれば、全館「へんしも速よう」との大合唱が沸き起こる。これが不思議と倉田典膳は間にあうんだ。ほんと国民は純情だったんですね。夏休みともなると、3本立てナイトショーまで始まる。それこそ勉強どころではない。かなり入り浸ったんだろうな。名画といわれるのは、ほとんどこの時代に見ています。もう少し年をとってからは、専ら白鳥座とまだ駅前にあった日活の洋画ばかり見ておりました。そんな訳で、小学校の夏休みの自由研究は、満員の映画館の中で拾い集めた、明治キャラメルの箱に印刷してある動物百科を画用紙に貼り付けて提出。かなり要領をカマシタもんです。天然色映画が始まったのは何時のころなのか。最初は部分天然色と言って、「ミッドウエイ海戦の戦闘部分の実写に、あとで色づけしたものだったように覚えている。たしかテク二カラーと言ったんじゃないか。「慕情」のLOVE IS A MANY SUPURENDAR THINGを覚えたのも、「グレンミラー物語」を見てTROMBONEが気にかかったのもみんな映画のお陰。戦後映画文化に一番影響を受けた一人ではないかと自負しています。