山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

犬も歩けば菜の花の沖

 3連休の真ん中。今日は昼過ぎから淡路島に渡る。先日から気になっている洲本・大野の和匠・よし乃の予約が取れたからだ。
時間があったので、津名一宮のICで降りて、志筑・ウエルネスパーク五色温泉でもとなった。
これまで淡路島島内の日帰り入浴温泉は行き尽くしており、最期に残っていたのが五色温泉だった。
ウエルネスパークへの入口あたりまで来て、目に飛び込んできたのが高田屋嘉兵衛生誕地の石塔だった。
そうか、この辺が嘉兵衛さんの出身地だったのかと合点がいった。
すこし先を見ると、高田嘉兵衛記念館があるではありませんか。
こうなればやはり覗いて行かないと話にならない。
その昔、勝海舟が淡路島の台場建設差配を命じられ、この地の沖を船でとうり過ぎた時、詠んだ詩があったはずだ。
『語らわん人さえなけれ淡路島 浜辺の桜花咲にけり』
蝦夷地・クナシリの開拓とロシアとの交渉に骨を折った嘉兵衛のことを、この出身の地淡路でさえもう誰も話もしないことを憂い、嘉兵衛を偲んで詠んだ。
展示物を克明に見て歩く。ロシア人俘虜・ゴローニンの俘虜記とともに、嘉兵衛の蝦夷地・露国見聞記はその当時の幕府の外国情報に大いに貢献したことがうかがえる。
しかし、嘉兵衛(1769-1827)亡き後、弟高田屋金兵衛になった天保4年(1833)、突如廻船事業停止、凾館所払い、船欠所処分すなわち全財産没収されてしまっている。
高田屋の傭船・栄徳丸が露国との密貿易の疑いありと松前藩から訴えられたのがその発端で、幕府に審問の結果、密貿易の疑いは晴れたが、ロシア船との船標密約(旗合わせ)の事実と嘉市の手船・順通丸が異国船に米や酒を与えた新事実が判明しっためといわれている。
この没収額は当時の幕府予算の四分の一といわれるほど膨大・莫大であったそうな。
要するに、大名借りに窮した松前藩が、高田屋からの借財の踏み倒し、あるいは権益を奪うための無理難題だったに違いない。これが遅まきながらの幕府の蝦夷地開拓とあいまって、すでに利権を確立していた高田屋の排除という一点で、利害が一致したことだろう。
思いがけず先人の功績を学ばせていただいた一日になっちゃいました。
勉強の種はどこに転がっているも知れません。
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