山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

福岡孝弟①

さて、龍馬最後の日、龍馬さんが頻りに会いたがった一人に土佐藩参政・福岡孝弟がいます。こののち、五箇条の御誓文の原案を書いた一人として記憶されることになるが、何故か政治の表舞台から姿を消します。
最後の日の孝弟の行動も腑に落ちないものがあり、田中光顕などはその不実を詰っています。
そこで、福岡孝弟の概歴を引用。


『福岡 孝弟 1835〜1919
ふくおかたかちか 天保6年〜大正8年
 
天保6年2月5日高知城下西弘小路に福岡左近兵衛孝順の二男として孝弟は生まれています。母は間数平直道の女。名を藤次。
高知市升形にある福岡孝弟誕生地。
孝弟は現在の高知市升形町に生まれます。孝弟の生まれた福岡家は家老福岡家の支族にあたり、禄高は180石で上士の中では中くらいに位置していました。周辺は裁判所や図書館がある市内中心部で、交通量の多い道の角に石碑がたっています。
孝弟は次男でしたが家督を相続しています。兄の精馬は学問に精通し14歳にして家塾を開く程の人物で、門弟には明治維新後に活躍した片岡健吉らがいました。しかし精馬は身体に障害があった事から家督を継ぐ事はなかったそうです。精馬が学問に専念する為に早々と跡目を弟の孝弟に譲ったとの説もあるようです。安政2年(1855)4月吉田東洋が長浜で少林塾(鶴田塾)を開くと孝弟は兄の精馬と共に?入門します。
「少林」とは長曾我部元親の菩提寺少林雪蹊寺山号からとったもので、長浜鶴田の地名から鶴田塾とも呼ばれていたそうです。この吉田東洋の私塾には神山左多衛や松岡七助、そして後藤象二郎らが学んでいました。
その他にも上士では野中太内、小笠原健吉、麻田精馬らが東洋の私塾に学び、彼ら門下生は、吉田東洋が参政に復帰した時に次々と藩政に登用された事から、土佐の人々から「新おこぜ組」と呼ばれ、孝弟も安政5年1月17日吉田東洋が参政に復帰すると高岡郡奉行に任命され、以後大目付、大監察へと昇進しています。新おこぜ組と呼ばれていますが、東洋が後藤象二郎に送った手紙には「孝弟は相変わらず精勤世事ますます麿練たのもしく候」と評価され、孝弟が東洋から厚い信頼を寄せられていたかがわかります。

土佐勤王党処断から藩論転換。
文久元年8月、白札郷士武市半平太土佐勤王党を結成し、土佐藩の藩論を勤皇へと転換すべく藩庁を訪れてきます。この時大目付であった孝弟は武市半平太と面会して時務進言を受けています。
しかし土佐藩武市半平太の進言を受け入れる訳がなく、吉田東洋も書生論としてはねつけると、土佐勤王党吉田東洋の藩政改革を不服とする山内一門連枝ら保守派と結託して、文久2年4月8日吉田東洋を暗殺したのです。
更に吉田派で固められた藩庁人事を刷新するクーデターを起こし、孝弟は4月11日監察を免職させられます。しかし文久3年8月、京での政変で勤皇派が失脚すると土佐藩土佐勤王党への弾圧を開始し12月に孝弟は大監察に復帰して真相追及にあたっています。その後中岡慎太郎坂本龍馬らの働きにより薩摩藩長州藩が同盟を結び、岩倉具視らが王政復古を計画すると、孝弟は諸国の有志と交わりながら状況収集にあたり、本来なら捕まえるべき相手である土佐脱藩者中岡慎太郎と会見をおこなったのです。
孝弟はこの時土佐藩の藩論であった『公武合体論』が、すでに遅れた思想である事を痛感したのでしょう。諸国に知られる志士となった中岡慎太郎の仲介により薩摩藩中心人物である薩摩藩西郷隆盛と会談をおこなうなど次第に倒幕派へと移行していくのです。