山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

203高地の真実④無謀な挑戦

剣山を奪取の報が告げられた頃、新設された満州軍司令部が大連に向かおうとしていた。
総司令官に大山巌元帥、総参謀長に児玉源太郎大将が任命されており、大山は乃木に会うなり旅順の攻撃計画を尋ねた。
乃木は「7月25日から30日までに攻囲陣地の編制を終了し、鳳凰山一帯を占領、鉄道修復を図る。8月13日までに攻撃用の火砲砲弾などの輸送を終え、18日から砲撃を開始。
21日には旅順要塞を砲撃、31日までに作戦を終了する。攻撃目標は旅順東北正面の二龍山と東鶏冠山の中間。すなわち、東北正面から一挙に攻撃を掛ける作戦である。」と作戦を説明した。
これに大山、児玉両将は了承を与えたが、その作戦がすでに古い情報を基に立てられたものであり、現実はロシアが巨費を投じて築いた旅順要塞が待ち構えていることを知る由もなかった。

要塞周辺には鉄骨とコンクリートで固めた砲台や銃座が無数に構築され、要塞を取り囲む前線の防御陣地は横に25Kにも広がり、砲台にh646門もの砲が日本軍を見据え、32個大隊、4万4千の守備兵が待ち構えている。

日本は陸海軍ともこうした情報が不足したまま、「速やかに攻撃すべし」という絶対命令に従って旅順要塞攻撃に無謀にも挑んだのである。