山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

本山親茂氏ゆかりの小嶋哲前神戸高知県人土陽会専務理事さまからのお便り。

【戦国時代初期の因縁により争い合っていた本山家と長宗我部家を和睦させるため、土佐西部の大名・一条氏の取り成しで行われた両家の婚姻により、本山氏の嫡男として生を受ける。
長宗我部家当主・長宗我部国親の政略逞しく、その後も争いは小康期間を置いて収まらなかった。永禄3年(1560年)5月の長浜の戦いで敗北したあとは本山氏に押される一方であった。だが親茂は永禄5年(1562年)9月16日から9月18日までの長宗我部元親との鴨部の宮前の決戦で長宗我部方に奮戦して勝利し、元親の将兵511人を討ち取った[1]。
朝倉城と土佐平野部の失墜後の永禄7年(1564年)に父・茂辰が病没。跡を継いで徹底抗戦を続けるが、長宗我部元親は本山城近くの森城に、かつて本山氏に追い落とされた森氏を帰城させ本山氏を圧迫した。親茂は本山城も捨て、叔父の守る瓜生野原(瓜生野城)に撤退し、なおも抗戦し何度も寄せ手を撃退するが[2]、耐え切れず遂に永禄11年(1568年)冬に軍門に降った。
その後、もともと元親と叔父甥の関係であったこともあったのであろうか[3]、元親に気に入られて一字を与えられ親茂と名乗り、一門衆に加えられ、長宗我部家の嫡男・長宗我部信親の家老として仕える。四国征伐により長宗我部氏が豊臣氏に臣従すると、天正14年(1586年)、豊臣秀吉九州征伐に元親・信親父子は参陣し、親茂もその配下として同行した。12月の戸次川の戦いで軍監・仙石秀久の作戦失敗により、島津勢に囲まれ、親茂は主君・信親と共に奮戦するも討ち取られた。享年42。】

上記は土佐戦国七雄の本山貞茂(のち親茂)のウイキぺデイア引用。

と言うのも、本日神戸高知県人土陽会の前専務理事・小嶋哲氏からずっしりと思い宅急便が届いた。新高梨の箱だったもので、弘子ちゃんは一瞬新高梨が届いたと勘違い。やれ嬉とあけてみると龍馬関連の資料がぎっしり。
私は昨日、書籍整理中の小嶋さんから、龍馬関連の資料書籍を送るからとの電話を受けていたがもう来たかと驚く。

箱の中に小嶋さんからの書面があり。
『およそ500年前、土佐西部と中央部の違いこそあれ、戦国時代の土佐に割拠した七豪族の内、あなたは津野氏、私は本山氏の両末孫が神戸の地で協力し、高知再興のために絆を強めることになるとは。
歴史の糸が絡み合う不思議な縁というほかありません。
長浜城ー浦戸城ー朝倉城ー(実家の寺院)と長宗我部に追われ、最後には朝倉から土佐酒造・桂月社長のおられる本山城へと北帰行。
長宗我部元親は本山氏を倒した余勢を持って、西部の津野氏に触手を伸ばしたと伝えられています。』とあった。小嶋氏が本山氏縁の血筋とは初めて明かされた。知らずに20年を過ごしたとは、小嶋さんもお人が悪い。
小嶋氏80余歳。今年は旧友島本前事務局長を亡くされ一抹の寂しさを耐えておられる。
私にとっては龍馬IN神戸のイベントを重ねるうえでの名ガイドであり、龍馬研究にのめりこむ切っ掛けを頂いた恩人だ。これからも貴重なアドバイス、酢の利いた助言を待っています。
頂いた貴重な書籍・資料は間違いなく次世代に繋げることを約束します。