山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

長宗我部盛親と島津義弘②元親の悲運

 盛親の親は長宗我部元親。この一代の英雄の晩年、それまでとは人変わりしたような事態が続く。
元親には4人の男児あり。信親・親和・親忠・盛親の内、長男信親は信長より信の字を賜るなど元親期待の後継ぎでありました。
信長がまだ四国に関心を払う余裕なき頃、元親が願って四国切り取り勝手の朱印状を貰い四国制圧に乗り出します。
ところが「天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫るが、元親はこれを拒絶する。このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受け、天正10年(1582年)には神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。この元親に対する信長の政策転換が、彼との外交を担当していた明智光秀の心を苦しめた為に本能寺の変に至ったという説もある。ともあれ、信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。」WIKIPEDIA引用
この中央における政権交代劇の際にも土佐・四国の立地から独り孤高を保ち、なお虎視眈々と中央をも狙う構えをとり続けます。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉からの伊予、讃岐の返納の命令を断ったため、秀吉の弟羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抗戦する。

秀吉は宇喜多秀家らを讃岐へ、小早川隆景吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣谷忠澄の言を容れて7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
この間、元親は秀吉に対抗すべく家康・根来・雑賀と手を組み、秀吉包囲網を画策する。これにより秀吉は急遽家康と和睦して長久手の戦を終結させねばならなかった。
何はともあれ、秀吉により永年に渡り駆けずり廻って切り取った努力が水泡に帰す結果となった。
しかし、戦国の倣いからして、このような事態で本領安堵に落ち着いたのは、やはり元親の武将としての器量を秀吉も認めざるを得なかったためでしょう。