山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬と明石

明石と龍馬   
そのころは播州明石藩の領地であった舞子の浜に寄り添って建つ旅宿左海屋の一室で、ぼんやり眼前に広がる明石の門を見やりながら龍馬は思わず手に持った大杯を口に付けたまま、「どうすりやえいろ」と土佐言葉でつぶやいた。
隣で飲んでいる高松五郎が何事といった顔つきで龍馬を覗き込んだ。 
勝先生の言いつけで舞子海岸に造作している舞子台場の工事の仕上がり具合を視察に来てみると、最後の砲据え付けに到って、明石藩砲術師範荻野六兵衛と勝先生の考えが真っ向から違って、工事は頓挫したままで佐藤与之助さんも頭を抱えている。
なにしろ海岸砲の前面胸壁の構造からして考え方が全く違った。

 文久三年、勝先生がお伴をして家茂様、姉小路公知公が大阪湾の防備状況を巡視された際、対岸の徳島藩の松帆台場に比べて明石藩舞子砲台が余りにも貧弱である事が露呈。明石藩家老織田安芸守らは台場改築の幕命を受けた。
幕府から二万両の貸与も出て、勝麟太郎先生の指導を受け、築造の真最中だ。
 ところが、荻野は藩の砲術師範でありながら築造当初から係ることの出来なかった不満から、荻野流砲術に適せずとして砲の据え付けを断固拒否している。

 その指摘のうち、砲台内で砲撃をすれば砲煙であとの砲撃不能となるとの頷けるものもあったことから、頭からこの言を無視することも出来ない。
 そもそも、咸臨丸でサンフランシスコ砲台を視察してきた勝先生の意見は、このようなお粗末な規模の砲台そのものが無意味との見解だ。
巨額を投じて台場を築造するより、海軍を育成して強固な艦隊を編成し、もって沿岸防備すべしとの信念があり、将軍家茂様に勝先生が恐れ多くも直訴に及び、勅許を持って設立を命じられた神戸海軍操練所と勝塾の完成のために龍馬も江戸に、越後にと東奔西走している。 先日も京都の福井藩邸で中根雪江と面談してきたばかりだ。
 実際の話が、松帆と舞子の両岸から豆鉄砲のような細かい砲で夷荻軍艦を撃ってみたところで。当たるはずもなかろうに。どうしてそんなに簡単なことが、この国の役人どもには分からないのか、土佐の海岸で島田流砲術演習に親父様と励んだことのある龍馬にはとんと合点が行かない。
 このことを龍馬が早耳で知っていたかどうか分からないが、六月一日には米軍艦ワイオミング号が長州海軍に報復攻撃をかけ、ついでに亀山砲台を壊滅させている。
おまけに五月二十日には黒豆さん・公知公が猿ケ辻で暗殺された。
 もめにもめた生麦事件の落とし前をつけるための薩英戦争開戦七月二十日が目前に迫っている。
 知ってか知らずか、龍馬はこの舞子の浜でじっとしているわけには行かない胸騒ぎを覚えていた。しかし、そのことを甥っ子の高松五郎に愚痴ってみたところでしょうがない。
乙女姉さんに「日本を今一度洗濯いたし申し候ことに致すべく」と長い手紙を書いたところだし、池蔵太のお袋さんにも、蔵太脱藩のことわり状を出さねば仕様がない。
ここは、西灘・明石の銘酒を喰らって一寝入りするしかないじゃいかと手枕だ。
 以上が左海屋での龍馬さんの心情だったのではと、断定はできないが、近いものが有るのでは。
 そんなこんなの状況の中で、なにを思うのか龍馬は次のような一句を残している。
 
  「うき事を ひとり明しの 旅枕
    磯うつ浪も あわれとぞ聞く」       

 龍馬を悩ました明石藩舞子台場の工事はその後ももめにもめて、荻野の主張する石垣前面に胸壁がわりに土俵でおおうこととなったが、今度は石工の谷淺吉等より苦情が出て収集が付かず、遂に維新となって廃止される憂き目となった。
 正に幕末、この明石の地にても、いま以上のテンヤワンヤが繰り広げられていたわけだ。
何気なく過ごす古里明石も時代の流れを確実に受け止めた事実を忘れてはいけないし、伝え残すのが今を生きる私達の勤めであることは肝に銘じなければならないことだ。