山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

火垂るの墓

野坂昭如火垂るの墓。録画で観賞。場面が神戸市武庫郡花崗町とあれば何やら身近に感じられる。
一升びんの米つきやらは私にもやった覚えが有ります。
20年8月と言えば弟が5日に上津橋の牛小屋で生まれてすぐのこと。
西新町は焼け野原で、行く先に困り、親父のすぐ上の兄貴の家に転がり込む。
当時私は4歳手前。疎開先で、西の空が真っ赤に燃え盛っていたあの紅が未だ思い浮かぶ。
ポンコツの三輪トラックを親父が工面して人丸山西坂を太寺へと向かったが、その上り坂を上りかねて途中でエンスト。困り果てたことを鮮明に覚えている。
火垂るの墓のような飢餓経験は無かったのか、覚えていないのか。
ただ後日親父の話では、居候さきの肩身の狭い思いの中、ふすま一枚隔てた叔父一家はどうやら蒸しイモをワイワイと食べている様子に気が付いた私が、僕も欲しいとシツコクねだったらしい。
その私を親父が堪らず叱りつけたとか。訳が分からない私が親父に何で叱られるのかと言ったそうだ。
その言葉に親父は思わず私をかき抱いてすまんすまんと謝るばかりだったとか。
あの大戦と混乱の終戦後を切り抜けて、その後何不自由なく育てて貰った両親の苦労を今にして思い返す。