山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

ゴッドマザー・池田智恵子氏を悼む

明石市文化財団・藤岡先生から思いがけない電話が入る。
文化団体・明石婦人サロン主宰の池田智恵子氏ご遺族より明石の文化に役立ててほしいと御寄贈を賜ったが、その人物紹介と業績紹介に、小生が2010.9.10-12に記した追悼文を引用しても宜しいかとの内容だ。
インターネットで池田女史の来歴を調べるうちにこの文章が出てきたそうな。
勿論引用に異論はなく、OKを出したが、さてどんな文章だったかと読み返してみるに、なかなか情の籠った名文に思えてきた。

つのしんの独り言  引用
婦人サロン代表・池田智恵子ゴッドマザーご逝去①

表記の池田智恵子女史が8月22日亡くなられたと今日聞かされた。96歳。
数年前に一線を退かれて老人ホームで療養中だあったが、新聞の奈辺を見ても彼女の事跡を惜しむ記事が見当たらない。
お付き合いで言えば、私が物心ついたころには親父のさんよう喫茶の常連としてお馴染になっていたから、ほぼ55年以上となる。
そんなことから、やはり彼女の事跡を知る限りで書かなくては申し訳ないと考えた。
そもそもは明石婦人連合会の有志が集まって、明石初の女性市会議員にと女史を担ぎ出し、さんよう喫茶の西隣に事務所を構えてママゴトのような選挙活動をされたのを覚えていて、結果は惜しくも落選とはなったけれど、その時の絆を無駄にするのを惜しんで明石婦人サロンを起ちあげられた。
爾来彼女が50年以上に渡って指導されてきた明石婦人サロンの代表を務められ、大正3年生まれとあればなお明治の気骨を供えられた女傑の一人。
ゴッドマザーとは私が命名させて頂き、ご本人にもそう申し上げた。その度にこの人は酷い事を云うと笑い飛ばされた。またこのグループが池田代表の号令一下整然と行動する様子から明石の圧力団体とも申し上げた。
そこまで厚かましく言えたのは、親父の兄の嫁方の親戚でもあって、身内扱いを頂いたということからだ。

② 創設40周年記念誌(2000年11月26日)を見ると、この文化団体 明石婦人サロンのメインテーマは『人生讃歌/究極をもとめるエイジレス』とある。
このテーマはこの会が進化するにつれて変化したのは当然で、女史は常に社会の流れの先を見越して会員を指導された。1980年の頃は手作りのグループとして『実り多い人生を生きる為に』とある。
最盛期には200名近い会員を集め、最低限の会費で、最大限の恩恵を施すと言う神技に近い事業を48年に渡り継続された。
世間的に云えば、姑が喜々としてサロンに出かけて行けば、嫁さん連中の息抜きにも成るし、婆さんが色々と教養を身につけてくれれば、家庭内の平和も保たれると言うもの。
ところで、月1回の定例会には教養講座・文化講座と称される講演が用意され、之のゲストとして迎えれるゲストの顔ぶれたるや、半端じゃありません。
これが一地方のグループが招いたメンバーとはとても思えない名前が180名近く連記された講師・ゲスト(抜粋)一覧を今見ています。
村山リュウ女史は顧問的存在。山崎豊子新珠三千代杉村春子(この流れから有馬稲子栗原小巻椎名麟三・田鍋聖子・森繁久弥浪花千栄子永六輔西条凡児中内功加藤大介・水原茂高田好胤淀川長治・加藤登喜子・陳舜臣
・松福亭松鶴辻久子小沢栄太郎片岡仁左衛門等、之は一覧表5段の上段抜粋だ。
これ程の顔ぶれを女史のネットワークで殆ど顎足で招いた。むしろこの会に招かれることが誇らしいように。
さすれば、会員の求心力はいよいよ高まり、会場は女史の号令一下厳粛にひたすら話に聞き入る。
グループごとに行事の当番を決め、その運営についても細かく意見を述べ指導する。度々のイエローカードに当番の婆さん連中が顔色を変えて勤める。
特に年末のクリスマスパーテイーは私のお店を借り切っての盛大な会で称して『アデュー・2000年』てなもので生涯独身を通した女史らしく、少女のようなロマンチックさを持ち続けられた。
洋画鑑賞がお好きで一緒に映画館にお供した会員の話によると、キスシーンでは『貴方がたもあんなことをしているの』との御下問があったとか。その話を聞いて吹きだした私め失礼いたしました。
お陰で大スター有馬稲子さんの歌のピアノ伴奏を命じられ、その至らぬ演奏に歌いかねて稲子さんが目を白黒されていたのが一番の冷や汗三斗の思い出となりました。
惜しむべしゴッドマザー池田女史忘れ難し。・・・・合掌・お世話になりました。