神戸大学発達科学部附属高等学校創設について
( 中島幸男副校長 聞き書き )
直近発行の同窓会紙「ユーカリ」の第一面に掲載された中島幸男副校長先生の附属高校必要論が気になり小生の商売柄(不動産仲介業)これは一度おめにか かってお話を拝聴したいと考えはじめ、思い切ってお電話をかけますと、是非とも来いとのお返事を頂き、4月9日午後1時勇躍先生のお宅に押しかけることに。
姫路市飾東町福崎といえば、今でこそ姫路バイパス姫路東ICを下りて312号線をJR御着駅を左に見て北上、山陽道に沿って東へ少々の辺りで、先生のお宅はのどかな田園の風景の中に一目でそうと判る風格をもって在りました。
あとに奥様のお話ですと、先生現役時代は御着まで道なき道を自転車で通勤で奥様も朝4時起きで朝の準備に追われたとのお話。
附中8回生であることを申し上げ、はたして覚えていて下さったのか大いに不安を感じながらご挨拶、色々申し上げているうちに、我がオヤジの家業(明石駅前で喫茶店営業・さんよう喫茶)のこととブラバンでトロンボーンを吹いていたことからやっと思い出して頂けたようで、「細くて小さい子だったのに」と一言。
「なにはともあれ、よく訪ねてくれた。先日も1回生の鷲尾君達が訪ねてくれたが、あくまで教え子としての親睦で、君のように、高等学校創設について聞きたいとゆう殊勝な卒業生の出現を心待ちにしていたところである。」と大上段より一撃。
以下聞かせることを必ず同窓会の皆様に伝えて、もう88歳米寿を迎える老骨の執念の一語と心得てこれの実現に粉骨砕身努力することを誓わされました。
記
(1) 経緯・創設運動の歴史
昭和22年兵庫師範学校女子部附属中学校として開校した母校は、当初より高等部の必要を実感し、常に学部にたいしその要求を継続繰り返してきた。
神戸大学が兵庫師範と神戸高等商業の併合により発足してより、総合大学として次々と新学部を創設できたのは、兵庫師範が保有していた潤沢な予算があってこそとの事情から、高等部創設の先送りは、中島副校長はじめ、関係諸氏には耐え難いことであった。
それでも、実現に向けてかなり可能性が見えたとおもわれるところまで話が進んだ事が何度かあった。
? 住吉は赤塚高校を、明石は須磨高校をそれぞれ附属高校として併合すべく運動した。
? 住吉と明石の中間地点に両校共同の高等部をと考え、いまの長田神社付近の国有地(広さも十分なもの)を見つけて払い下げに動いた。
? 昭和40年頃 三木市の公園工場辺りに60,000坪の国有林を発見、これがほぼ平坦地でおおいに気に入りこれの払い下げに動いた。
? 最も実現に近かづいたのは、教育学部・大学本部・文部省と話が進み、予算もつきかけたときに、看護学校(須磨・高倉台)の設立と重なり、政治的決着の末涙を呑んだ時である。
? 大久保に用地を求め大いに運動したが、この時は、附属養護学校としてのみ実現している。
? 野々池の埋立地に幼・小・中一体で移転とゆう案もかなり現実性があった。
山下町との等価交換とゆう手段を知っていたなら、この時も限りなく実現に近かった。
(2) 明石の今
かくして先生ご退官の昭和60年までの35年にわたり、脈々と続いてきたこの思いは果たして未完に終わらせていいものだろうか。 過日の明石小100周年に参集された同窓諸氏の力を結集して機運を盛り上げることが出来れば、今までにないうねりとなって悲願実現も夢ではないのでは。 図らずも現学部長はかって附中の校長を歴任されておられるとのこと。 時は今であります。
明石学区の事情もここに来て変化を見せ、長年続いた総合選抜制も検討・改革の動きとなっています。
また根本的な動機として、この地において、中・高一貫体制が最も機能的で、望ましくあり、附中に子弟を通わす父兄の皆様からも熱望され続けられているとゆう事実も忘れてはなりません。
(3) 高等学校創設準備・検討委員会の設立
先生より、時は今との言葉とともに、委員会の創設メンバーの具体的お名前を拝聴し、真っ先に相談すべき方々まで念を押されておりました。
以上、拙文にて意を尽くしておりませんが、先生の念願達成への執念の万分の一でもお伝えすることが出来ればと願っております。
8回生 津野 伸一 記