山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

結婚そして第一子出産

c801a110.JPGやっとのことで10月15日の結婚当日を迎える。その前後のことは、ほんと忙しさに追いまくられて覚えているのは、ほんの断片的なことばかり。
けれど、明石の人丸花壇での結婚式には、親父のグループの面々がズラリと顔を揃える中で、仲人を神戸商大ゼミの恩師・栗田真造夫妻にお願いし、来賓に、明石付属中学担任の神谷好先生・明石高校3年担任の住田圭司先生・神戸商大サッカー部顧問田中博教授・同じく教養ゼミとドイツ語の竹馬事件でお世話になった鈴木照雄教授と恩師の皆さん全てをお招き出来た。残念ながら一番お世話になった神戸大学付属明石小学校担任の清水一郎先生は連絡が取れず、お招きできなかったことは覚えている。
たしか新婚旅行も一任されていて、ほんと間際になって佐渡島会津・福島と巡るコースを選んでお茶を濁したこと。結果、とても季節の上でも良い選択で、十分旅をたのしんだこと。結婚式を済ませて、新婚旅行に旅立つタクシーも神戸までの筈が、もったいなくて舞子で下りて国鉄の乗り換えたこと。新婚旅行の帰りに木更津駅前の布団屋で頼んでいた、寝具一式を受取、担いで新居に帰ったこと。
ままごとのような新婚生活が始まって、すぐに妊娠、出産予定は翌年8月となった。その間、啓三・郁子が遊びに来て、兄弟でフラワー道路・館山にもいこました。国立競技場での全日本対アーセナルの試合も弘子ちゃんと観にゆきました。スタンド最上段で選手の姿がほんと小さく見えたものです。
そんな夢のような生活。もちろん入江商店のお仕事は無我夢中の取り組み。家に仕事を持って帰って、徹夜で仕上げて、翌日遅刻しちゃうような間抜けぶり。ほんと勤め人の自覚がありませんでした。
弘子ちゃんは木更津駅近くの葛田医院で御世話になっておりました。なにしろツワリが酷くて、医者にみせてもまだ妊娠の兆候なしと言われる時点で、盛大にえづき始める。腹が落ち着くまで、寝たり起きたりして、辛さを凌いだ。そんな苦労もその時の私には十分わかってやれてはいなかった。木更津の先、富津の大花火大会に連れだしたり、若気の至りのへまをやらかしたような気がする。
8月11日、出産は無事?済んで、母・男児ともに無事との報告を受けた後、看護婦から、どうも赤ちゃんのお腹が段々大きくなっているようだとの知れせがあった。先生はと聞くと、出産後散髪に出かけて不在。慌てて、明石のオヤジに電話を入れたところ、親父の姉で高知で産婆をしている叔母に聴いてみろとなって、さっそく電話を入れる。6000人は取り上げたというベテランの産婆も、お腹が膨れる理由が思いつかない。けれどただ事で無いことだけは確かだ。こうなれば新生小児科に駆け込むより手はないという判断で、救急車を手配した。
ちょうどできたての千葉大学医学部新生小児外科に綿貫教授がおられるということで、どうして大学へ駆けこんだものか。かすかに救急車のなかで赤ちゃんを抱き締めていたことだけは、いまも手の感触まで覚えている。
綿貫教授の診察を受けた結論は、体液が何らかの理由で、腹腔にあふれ出ている状態で、生命の安全は確保が難しい。一か八か開腹してみないことにはどうしようもないとの見立て。この生まれたての赤ん坊にそれだけの手術に耐える体力があるとは思えないし、昭和43年頃の新生小児外科のレベルなんて、今からみれば幼稚なもんでした。しかし、このまま手をこまねいてはおれず、断腸の思いで開腹を決意する。
結果、病状としては先天性胃窄孔。小さな胃が風船が破れたように孔が開いていたそうな。ここで言う先天性とは、どう考えても先天的に異型があったということではなくて、生まれる過程で、なんらかの理由で胃が破れていたということ。たぶん出産時に羊水を飲む、あるいは胃中に圧をもって流れて、その為胃が破裂したに違いない。息を引き取った小さな亡骸を抱き締めてただ佇むことしかできなかった。バットで頭を思いっきり殴られたようなショックで、それからの10日間ばかりを過ごすこととなった。
出産時にちらっとしか赤ん坊の顔を見ていない、ましてや抱かせてもやれなかった弘子が不憫でたまらない。
明石から飛ぶようにして駆け付けた親父も姿を見せても、慰めの言葉も出ない。
そんななか、人一人がA点からB点と生死の処が違えば、水子としての扱いではなく、出生届けを出して後、死亡届を出してからでないと、荼毘にふすことも出来ない。なんとあっけない人生だったことか。しかたなく静伸と命名。我が第一子となった。